私たちの生存戦略

補論 最後の花嫁――幾原邦彦論・試論【前編】

日本アニメ界の鬼才・幾原邦彦。代表作『輪るピングドラム』10周年記念プロジェクトである、映画『RE:cycle of the PENGUINDRUM』前・後編の公開をうけて、気鋭の文筆家が幾原監督の他作品にもふれつつ、『輪るピングドラム』その可能性の中心を読み解きます。

少女革命とは何か
そして同時に、成熟とはアンシーを苦しめてやまなかった女性ジェンダー規範に従順になることでもあり得ない。
一般に語られる成熟はしばしば、シスジェンダーの異性愛者としての身分を確立することと同義である。その意味では幾度となく「女の子は王子様にはなれない」と言われるウテナの成熟は、彼女が見事女の子らしく「お姫様」の理想を受け入れることを意味するだろう。
だが『少女革命ウテナ』は、「王子様」を目指していた女の子であるウテナがそのような成熟を遂げる様を描きはしない。むしろ彼女が「女の子」らしい服装を身につけ、男性とセックスした後に、それでもなお「王子様」を目指すところを描くのだ。
ウテナと男性の性行為を描く第33話の後に配置された第34話では、アンシーを救いたいと願うウテナが「でも君は女の子だ、やがては女性になってしまう」と言われ、それに対して「なる、王子様になる」と答える場面が描かれる。「女性にはならない、王子様になる」ではないのだ。女性になることは王子様にならないことではないのだ。
女性=大人になり、かつ王子様になること――ウテナが志向するそれとは、まさしくアンシーを縛っていた世界のありように対する反逆であり、「少女革命」なのだった。

物語の最後は、傷だらけになりながらアンシーの棺を開け、そして彼女に手を伸ばすウテナが描かれる。ついにウテナへと手を伸ばすアンシーが描かれ、手を取り合う彼女たちを「いつか一緒に輝いて」というこの上なく美しい言葉が彩る。
けれどもそれで全てが終わるわけではない。ウテナが決死の努力でアンシーに手を伸ばしたように、今度はアンシーが彼女を探し出す試みを開始する。解放は、革命は一度きりのそれで成し遂げられるわけではない。
その後の人生、続いていく日々、自分自身を生きる試みはむしろそこから始まるのだ。
だから学園=自分本位の世界に未だ安住する人々が天上ウテナを忘れ去っても、人々が彼女の成し遂げた「革命」の意義を理解していなくても、アンシーはもう知っている。今度は自分がウテナを探しに行かなければいけないことを知っている。そしてその先に、再び彼女に出会えることを知っているのだ。
このようにして〈花嫁〉は解放された。新たな旅が、人生が彼女を待っている。アンシーは従順さの象徴であるひっつめた髪をほどき、メガネを外し、学園を去る。未だ何にも気づけていない男に「あなたはその居心地の良い棺の中で、いつまでも王子様ごっこしていてください」と言い残して。