昨日、なに読んだ?

File.123 ロシアの夜に開く本
奈倉有里『夕暮れに夜明けの歌を――文学を探しにロシアに行く』

各界で活躍されている方たちが読みたてホヤホヤをそっと教えてくれるリレー書評。今回のゲストは、ロシア在住の美学研究者・井奥陽子さんです。

 自分語りをすることを許してほしい。
 私はモスクワに家族と住んでいる。夫は報道関係者で、子が一人いる。子の年齢はロシアのウクライナ侵攻とほぼ同じ、2歳を過ぎたところ。
 侵攻開始からちょうど半年が経った2022年8月下旬、夫の駐在のために日本から引っ越した。日露間は葉書の1枚も届かない状況で、ベビーカーとスーツケースとリュック、そして自分たちで運べるだけの段ボールを飛行機に乗せて。
 この2年のあいだ、ロシアやロシアでの生活について、努めて話さないようにしてきた。あるいは、話せなくなっていた。
 理由はいくつかある。だいたいは保身のため。夫の職種も大きく関係している。私は専門家ではないから、いまロシアについてものを言う資格はないとも感じていた。そうして自発的にブレーキをかけて、息苦しくなっている。

 ロシアにはそれなりに思い入れがある。2002年3月、私はペテルブルクとモスクワにいた(奈倉さんが渡航したのと同じ年だ)。短い旅だったが、思春期の心に鮮烈な印象を残すには十分すぎる経験だった。のちにロシア人の知人・友人も何人かできた。かつて旅路をともにした友人はモスクワで出産した。
 私自身が住むことになってからも、この土地で知り合った人々とのささやかな関わりのなか、ひとつの小さな世界を生きている。
 これまで出会った彼・彼女らには当然それぞれ名前があり、来歴がある。そのまわりを折々の自然や街の景色がとりまいている。
 それなのに、戦争はすべてを押し流してしまう。まるでモスクワの冬に毎日たんたんと稼働する除雪車のように。あらゆる事象の是非や真偽が「ロシア」か「ウクライナ」かという括りで議論される。舞台には政治家か著名人しか登場しない。兵士も市民もただの書割だ。何人動員、何人死亡。みんな数字のなかに消えてしまう。
 ここに降る雪は日ごとにまったく違うかたちをしていることに気がついて、一粒の雪のかけらを必死に追いかけている自分は、底なしに能天気で罪深いことをしているように感じる。
 ロシアでの生活は、実際以上に悪く想像されるか(「物価高や物資不足が深刻って聞いたよ」「外出もままならないんじゃない?」)、楽観的に想像されるか(「モスクワは普段どおりなんでしょう?」)、そのどちらかだ。中間はない。在露邦人のあいだでも見えているものが違うと感じることが多い。当然と言えば当然だろうけれども。SNSでは、ロシア関係者が心無い言葉を投げつけられる場面に遭遇する。
 私の知っている、いま私が生きているはずのロシアがどこにもない。私はおそろしくものが見えていないのだろう。何も言えなくなる。

                  *

 3月22日金曜日、モスクワ郊外でテロがあった。
 夜9時頃、ちょうど一日の育児を終えて文献を読み始めたところだった。キッチンから緊迫した声が聞こえてきた。夫は短い電話を切って、そのまま何も言わずに出て行った。また何か起こったな。ニュースを開く。ほら速報だ。モスクワのコンサート会場で銃撃。銃撃?
 まもなく映像も流れてきた。巨大なガラス張りの建物から、その何倍もの黒煙がもうもうと立ちのぼっている。銃で武装した数人が、ホールのロビーを物色するようにゆらゆらと動き、音楽を聴きに来たはずだった人々へまっすぐ狙いを定めて撃つ。落ち着き払った様子で、何発も。入口のガラスはめちゃくちゃに割れ、警備員らしき人がそのなかで倒れている。走って逃げる人。呆然と立ち尽くす人。しゃがみ込む人。折り重なる人、人、人。銃声。
 ふと気がついたら日付が変わっていた。夫からはまだ連絡がない。早く立ち上がって、湯を浴びて寝たほうがいいのは分かっている。でも寝てもどうせ悪夢を見るだけだから。

 偶然、オンライン書店で『夕暮れに夜明けの歌を』の書影が目に入った。あまり覚えていないが、何かを確信して電子書籍を購入した(紙の和書は入手できない)。すぐに開くと、不思議な錯覚に陥った――あった。私の知っているロシアが。ここにはある。
 2002年、ペテルブルクに飛行機が着陸すると一斉に拍手が沸き起こり、自分もつられて手を叩く。広場に聳え続けるレーニン像。小さな電球が薄暗い部屋を心もとなく照らし、理不尽な社会構造や国家・民族間の衝突によって生じる出来事が日常に黒い影を落とす。薄緑の大きな瞳の女性がまっすぐこちらを見つめ、信仰について語ってくる。復活祭のあとの憑きものがとれた感じ。黒パン、蕎麦の実、大量の手作りブリヌイ。「ニャーニャ(ベビーシッター)」という言葉の心地よい響き。エレーナ、ユーリャ、オーリャ……。
 もちろん、きわめて特殊な経験を積んできた著者に自分を重ねあわせるなんて、おこがましいとは百も承知している。私は土地へ根を下ろした生活をできているわけではないし、言葉も不自由だ。立場としては、本書で著者の生活と対照的に描かれる駐在員一家の側にいる(あんな贅沢な暮らしからはほど遠いが)。本書の内容のほとんどは私が直接見ることのできない世界である。私と知り合いのエレーナもユーリャもオーリャも別の人だ。
 そんなことは分かっているが、なぜだか分からないが、文字を追うごとに身体の強張りがほどけていった。