翌朝、夜通しパソコンに向かっていた夫がふらふらとやって来て、ただ一言ゆっくり「96」と言った。死者数のことだ。何も言えなかった。
その夜もまた奈倉さんの言葉を求めた。読書も終盤にさしかかったところで、なぜこの本がロシアでうずくまっている私にとって灯火となったのか、謎が解けた。
どの地域についてでもそうだが、とりわけ普段はあまり注目されないような国や地域についてのニュースというのは、いっときさかんに報道されても、激しい衝突がなくなるとぱたりと情報が途絶えてしまう。〔……〕そこにはひとりひとりの暮らしを詳細に知らなければ伝えようのない真実というものがあり、それを描きとる可能性を持つのが文学でもある。(kindle版194頁)
真実はむきだしのまま道端に転がってはいない。名前を持った個々人の人生やものの見え方、日々のちょっとした出来事や感情の揺らぎを掬いとることで、初めて見えてくるものがたくさんある。
ただ街の様子を眺めただけでは分からないのだ。分からないということだけは、ロシアに住んで経験から学ぶことができた。私は知っている。今日モスクワの街を行く人のなかには、故郷が失われ、家族と離れ離れになっているウクライナ人が少なくとも一人はいる。
あとがきまで来ると、いっそう決然と語られていた。
統計や概要、数十文字や数百文字で伝達される情報や主張、歴史のさまざまな局面につけられた名前の羅列は、思考を誘うための標識や看板の役割は果たせても、思考そのものにとってかわりはしない。私たちは日々そういった無数の言葉を受けとめながら、常に文脈を補うことで思考を成りたたせている。〔……〕
文字が記号のままではなく人の思考に近づくために、これまで世界中の人々がそれぞれに想像を絶するような困難をくぐり抜けて、いま文学作品と呼ばれている本の数々を生み出してきた。だから文学が歩んできた道は人と人との文脈をつなぐための足跡であり、記号から思考へと続く光でもある。もしいま世界にその光が見えなくなっている人が多いのであれば、それは文学が不要なためではなく、決定的に不足している証拠であろう。(kindle版212頁)
そう、光が見えなくなっていた。氾濫する記号と、その解釈をめぐる声が四方八方から押し寄せて。信じられないことが次から次に起こり、それを夫の肩越しに覗き見るロシア生活。夫は記号を365日全力で発信しながら、そこにある文脈にも身を置いており、それゆえの苦悩が滲み出ている。私は何が本当なのか皆目見当がつかなくなって、何もできずに、溺れかけている。
著者の言葉と本書で紹介される文学作品は、そんな私の手を引いて岸に上げてくれた。
読み終えたあとも何度もページを行き来して、やっと閉じると朝の5時だった。モスクワもかなり日が長くなってきたとはいえ、まだ明け方とは思えないくらい真っ暗だ。もぞもぞと布団に潜って、少しだけ眠った。