阿弥陀二十五菩薩来迎図のイメージ化
現在、阿弥陀来迎図としてよく知られるものとして、京都、知恩院の「阿弥陀二十五菩薩来迎図」(13-14世紀)がある[fig.1]。山筋を雲にのって急降下してくる阿弥陀と二十五菩薩が描かれている。別に「早来迎」とも呼ばれているのだが、死の直後にやってきてほしいという切迫した思いから、こうした形式がでてくることになる。現在この図は京都国立博物館に寄託されているので、下記サイトで鑑賞することができる。(http://www.kyohaku.go.jp/jp/syuzou/meihin/butsuga/item06.html)
二十五菩薩の先頭で蓮台を捧げて跪くのが観音菩薩、手前で合掌しているのが勢至菩薩、その奥で天蓋を捧げているのが普賢菩薩である。この迎えとってもらうというところを最大限強調すると、先頭をやってくる観音菩薩のしぐさが重要になってくる。そういうわけで京都、大原三千院の往生極楽院の阿弥陀三尊坐像[fig.2]では、観音、勢至の両菩薩が、下のほうにいる観者のほうへと前傾する姿で象られている[fig.3]。
あるいは阿弥陀来迎を演劇化した迎講として現在も當麻寺で毎年五月十四日に行われている聖衆来迎練供養会式では、蓮台を捧げる観音菩薩が死者を掬い取るようなかっこうで歩いてくることで、下界の衆生を救うしぐさをあらわしているといわれている。聖衆来迎練供養会式は、俗に「お練り」と呼ばれていて、極楽にみたてた本堂と娑婆に見立てた堂との間に橋をかけ、いま死した中将姫を阿弥陀如来と菩薩、天人が迎えにくるということを演劇的に再現したものである。迎えとった帰りには観音菩薩の蓮台の上に仏陀となった姫の像が乗る。同じような演劇的再現は、東京でなら九品仏浄真寺でみることができる。「二十五菩薩来迎会」、通称「お面かぶり」である。
ところで、當麻寺の練供養で往生する役回りの中将姫だが、これが第六回で扱った「当麻曼荼羅縁起絵巻」の横佩大臣の娘である。中世のいつからか、横佩大臣の娘は、中将姫ということになって、ただの往生譚に継子いじめなどの物語が付加されて、さらに人口に膾炙するようになる。のちに中将姫は薬湯のイメージを担うようになり、バスクリンで有名なツムラのマークは中将姫をかたどったものとして知られている。といった具合に、物語的に大展開を遂げていくわけだが、あらためて、鎌倉、光明寺蔵「当麻曼荼羅縁起絵巻」の来迎場面をみてみると、この絵巻は実は通常の来迎図とは決定的に異なる部分があることに気づかされる[fig.4]。
知恩院蔵「阿弥陀二十五菩薩来迎図」に類する絵画は数あれど、来迎メンバーの構成は似たりよったりである。楽器を鳴らす菩薩たち、舞を舞う菩薩たち、そこに地蔵菩薩があらわされていることもある。ところが「当麻曼荼羅縁起絵巻」の来迎場面には、他の来迎図には出てこないものが描かれているのである。文殊菩薩の姿である[fig.5]。