五髻文殊はなにを示しているか
「当麻曼荼羅縁起絵巻」来迎場面の阿弥陀如来の後方、太鼓の前に、右手に剣を持ち、左手に経巻を持つ姿で、頭髪を五つのおだんご状に結んだ童子のようにかわいらしい五髻文殊の姿が描かれている。あの「当麻曼荼羅縁起絵巻」は女による女のための極楽往生物語だったのだから、この絵巻の来迎場面にだけ五髻文殊が描かれているということは、それはやはり女の信仰を指し示すための合図なのではないだろうか。
実はこの五髻文殊にそっくりの像が中宮寺にあるのである。中宮寺は法隆寺の裏手に隣接するように建っており、聖徳太子が母、穴穂部間人皇后のために建立したと伝えられる尼寺である。木製のように見えるこの像は、像高52.2センチの小さな像で、経巻を芯として、全体も紙でできているという[fig.6]。とても紙製には見えないけれども、ならばこの寺の尼たちが手ずから作り上げたのかもしれないと思えてくる。胎内に納められていた舎利を包んであった紙に願文が書かれているのがみつかっており、文永6年(1269)に尼僧、信如が願主となって作ったものとみられている。信如尼は弘長2年(1262)に中宮寺に入り、中世にすっかり廃れていた中宮寺を再興した尼として知られている。
再興に際しては、資金援助を京の都の貴族たちに頼んだものと思われ、宮中に出入りしていたことが、後深草院に仕えた二条の書いた『とはずがたり』(1313)にもみえる。二条は、宮中の女房勤めをやめた後半生に各地を旅してまわるのだが、奈良を春日大社、法華寺とまわったおりに中宮寺を訪ね、しばし滞在している。そこを訪ねた理由としては、「聖徳太子の御旧跡、その后の御願」で建立されたと聞くにつけても拝観したく思ったからだと語られている。
聖徳太子は、古来ずっと信仰されてきたわけではなくて、中世になって隆盛を極め、本当のゆかりの地はいざ知らず、それまで縁もゆかりもなかった寺社までもが競って聖徳太子との縁をでっちあげはじめるほどの人気となっていく。西口順子「磯長太子廟とその周辺」(『民衆宗教史叢書 第32巻 太子信仰』雄山閣、1999年)によれば、聖徳太子の建立した大阪、四天王寺は、寛弘四年(1007)に「四天王寺御手印縁起」が発見されて以降、四天王寺の西門が極楽世界の東門にあたるという思想が流布し、四天王寺が極楽世界の入り口として信仰されるようになったという。つまり太子信仰は、極楽往生思想の隆盛とシンクロしつつ醸成されたのである。二条も後深草院の死後に四天王寺を訪れている。
となれば、奈良を訪ねた二条が法隆寺、中宮寺を訪ねたいと思うのも不思議はない。しかし二条は、法隆寺のほうではなくて、中宮寺を訪ねるのである。なぜなら、そこはかつて宮中で会っている尼僧、信如が長老をつとめている寺だったからだ。しかし、残念なことに、信如は二条のことをはっきりと覚えているわけではなかった。
長老は信如房とて、昔御所ざまにては見し人なれども、年の積もるにや、いたく見知りたるともなければ、名乗るにも及ばで、ただかりそめなるようにて申ししかども、いかに思ひてやらむ、いとほしく当られしかば、またしばし籠りぬ。
(長老は信如房といって、昔、御所あたりで見た人であるけれども、年をとったせいか、よく見知っているというふうでもなかったので、わざわざ名乗ることをせずにただちょっと立ち寄ったかのように申し上げたのだけれども、どのように思ってか、やさしく迎えてくださったので、またしばらく籠った。)
二条は、ここに信如がいることを知っていて中宮寺を訪ねている。信如は覚えていないようだけれど、二条のほうがはっきりと覚えているほどによく知られた尼で、御所への出入りも一度ではなかったものと思われる。この信如が作ったのが、かわいらしい紙製の五髻文殊像だった。持物は失われているけれども、その姿から、右手に剣、左手に経巻をもっていただろうことがわかる。その姿は「当麻曼荼羅縁起絵巻」に描かれた五髻文殊像にぴったりと一致する。
さらに中宮寺滞在直後に二条は當麻寺を訪ねているのである。當麻寺と中宮寺との縁を二条の旅の軌跡が結ぶ。當麻寺で二条は、おそらく絵巻をみせてもらったのであろう。「当麻曼荼羅縁起絵巻」と同様の物語をこまかに記している。
法隆寺より当麻へ参りたれば、「横佩の大臣の娘、「生身の如来を拝みまゐらせむ」と誓ひてけるに、尼一人来たりて、「十駄の蓮の茎を賜はりて、極楽の荘厳織りて見せまゐらせむ」とて請ひて、糸を引きて染殿の井の水にすすげば、この糸五色に染まりけるをぞ、したためたるところへ、女房一人来たりて、油を乞ひつつ、亥の刻より寅の刻に織り出だして帰りたまふを、房主、「さても、いかにしてか、また会ひたてまつるべき」と言ふに、
往昔迦葉説法所 今来法基作仏事
卿懇西方故我来 一入是場永離苦
(この地は昔、仏弟子の迦葉が説法したところであり、今、法基菩薩が来て仏事を行っている。あなたが西方浄土を懇ろに願ったので我は来たのだ。一度ここへ入れば永遠に苦しみから離れるだろう)
とて、西方を指して飛び去りたまひぬ」と書き伝へたるも、ありがたく尊し。
二条のまとめによると、横佩大臣の娘の往生のクライマックスよりも、極楽の荘厳を織って見せてあげましょうと言った尼が西方を指して飛び去ったということ、つまり生身の如来がやってきて極楽往生を約束してくれたことが重視されていることがわかる。
第六回でみたように、二条は「生身の如来」だといわれているからといって、わざわざ善光寺へ参った人である。生身信仰ブームのさなかにいた人であったといってよい。そんな二条の書いた『とはずがたり』を介して、生身如来に出会う話である「当麻曼荼羅縁起絵巻」と中宮寺の信如が奇妙にも交差しているのである。「当麻曼荼羅縁起絵巻」の往生場面には、信如の作った五髻文殊の姿が描きこまれていたわけだが、文殊像というのは、かの清凉寺の生身の釈迦像を持ち帰った奝然が日本にもたらしたことになっているのである。奝然をとおして、生身信仰と文殊信仰がさらに交差する。今様好きの後白河法皇が流行歌謡を集めた『梁塵秘抄』(1180)には、次の歌がある。
文殊は誰か迎へ来し 奝然聖こそは迎へしか迎へしかや 伴には優塡国の王や大聖老人 善財童子の仏陀波利 さて十六羅漢諸天衆
奝然のもたらした文殊像がどのようなものかわわからないが、ここに唄われている文殊像は、釈迦の生身像をつくらせた優塡王と、大聖老人、善財童子、仏陀波利を伴った形式であったようだから、おそらくは奈良、西大寺にある文殊五尊像のように、文殊像は獅子に乗った坐像であったと思われる[fig.7]。このような四人の侍者を伴った像は、他に安倍文殊院、東京国立博物館蔵の作などにみられる。これらの文殊五尊像はいずれも鎌倉時代の作品で、南都たる奈良の寺院の復興に尽力した叡尊(1201-1290)、忍性(1217-1303)に関わるものとされている。金子啓明『文殊菩薩像』(『日本の美術』No.314至文堂、1992年)によれば、叡尊、忍性は『文殊涅槃経』という経典に「文殊は身を貧窮孤独の衆生に変えて、行者の前にあらわれるであろう」とあることを受けて、民衆救済に尽力したという。貧者は文殊がこの世に現れ出た姿かもしれないのだから、貧者に施しをしてこれを敬うのである。
では中宮寺の信如が叡尊とどのようにかかわっていたかというと、同じように南都復興に尽力したということ以外によくわからない。文殊信仰と一口に言っても、信如がつくった五髻文殊と文殊五尊像とではあまりにも姿かたちがかけ離れていて、少しも似ていない。第一、文殊菩薩像は、獅子の上に坐す、坐像としての作例が一般的で、中宮寺のような立ち姿の立像は極めて珍しい。