絶叫委員会

【第132回】加齢と言葉

PR誌「ちくま」10月号より穂村弘さんの連載を掲載します。

 歌人志望の若い人へのアドバイスを求められることがある。そんな時は、良い歌をつくろうとか文法や修辞や古典を勉強してからとか、そういうことは考えずに、とにかく今ここで作品をつくったほうがいい、と答えることにしている。その理由は、今つくれる歌は今しかつくれない歌だからだ。
 詩歌の成分は一〇〇パーセント言葉である。だから、原理的には思いついたことはなんでも自由に書けるはずだ。でも、実際には何故かそうはならない。自分の魂(というのが大袈裟なら生理感覚)からズレた言葉は書こうとしても手が止まり、無理に書いてもなんというか紙の上に定着しないのだ。或いは、それは韻文の原理と関わっているのかも知れない。
 二十代の自分が好んだ言葉のうちの幾つかは、今ではまるで禁じ手になってしまったかのように使えなくなった。具体的にいうと、「おまえ」という二人称、「まみれる」という動詞、それから命令形。この辺りが、どうしても自分の中から出てこなくなってしまったのだ。

 朝の陽にまみれてみえなくなりそうなおまえを足で起こす日曜
 爪だけの指輪のような七月をねむる天使は挽き肉になれ

 魂の核にあるものは不変、というのは事実かも知れない。でも、その一方で、時の経過とともに心身が少しずつ変質して或る面では別人になってしまう、というのも実感なのだ。
 若い人にその感覚を伝える時は、味覚が変わるように、と表現している。昔、あんなにおいしいと思っていたものがいつの間にか食べたいと思わなくなる。その逆に、なんのために存在しているのかわからなかった葱などがたまらなくおいしく感じられるようになる。この変化に意志の力で抗うことは難しい。
 と書きながら、より大きな行動に繋がるような感覚の変化もあることに気がついた。十八歳の時、バーゲンで買ったアロハシャツの柄が気に入らなくて、それを白いシャツにしようとしたことがある。洗面器に漂白剤の原液を入れてアロハシャツを浸けた。半日ほどそのままにして様子を見に行くと、見事に色が抜けて真っ白になっていた。やった! 成功だ! 
 興奮しながら割り箸でシャツを引き上げようとした瞬間、バチャッと何かが落ちた。あれ? と思って見るとシャツが千切れていた。驚いて掬おうとした箸の動きで純白の布がばらばらになり、それからどろどろに溶けてしまった。私はがっかりした。
 思い出すと笑えてくる。あれで、漂白剤の原液で、いけると思ったんだなあ。なんて楽観的というか強気というか馬鹿なんだろう。よくわからないけど、一歩間違えたら、危ないことになっていたんじゃないか。現場の状況から見て事件性は低く、柄物のシャツを白くしようとした際に過って事故が発生したものと思われます。あの眩しいほどきっぱりした愚かさは、もう私の中から失われてしまった。