絶叫委員会

【第137回】父の言葉

PR誌「ちくま」3月号より穂村弘さんの連載を掲載します。

 子どもの言葉や小学生同士の会話の面白さについては、この連載でも何度か採り上げたことがある。その一方で、高齢者の言葉にもなかなか味があると思う。私にとってもっとも身近な高齢者は父である。今年米寿を迎える彼は耳こそ遠いものの元気で、特に足腰が強く、今も登山を趣味としている。
 そんな父は一緒に行った旅先などでカメラを向けられると、必ず「五歳若く撮ってね」と云う。定番のジョークなのだ。五歳若く撮ると八三歳か、あんまり変わらないよなあ、と思って可笑(おか)しい。
 また、耳が遠い人にありがちなことだが、本人は自然に話しているつもりの声が大きくなりやすい。その大声であまりにも率直すぎる感想を述べるので、時にはひやひやさせられる。
 一昨年、私が講談社エッセイ賞を受賞した時のこと。同時に受賞したのが小泉今日子さんだった。授賞式で普段はテレビ画面の向こう側にいる人を見た父の感想は「キョンキョンでないか!」。そうです、その通りです、お父さん、と周囲は一斉にその意見を肯定。なんとか声のボリュームを絞って貰おうとする。
 でも、父の勢いは止まらず、「キョンキョンだよ! ほれ、あれ、ほれ、元の旦那は……」、あわわわわわ。慌てて隅のほうに引っ張っていく。キョンキョンについて知っている知識のすべてを今ここで発表しなくてもいいんですよ、という思いを込めながら、唇に指を当てて「しーっ」とする。ああ、そうか、うんうん、わかってるわかってる、と真顔で頷く父。再び大声で「いい役者だよなあ、ナガセマサトシくん」。わかってないじゃないか。
 今年の正月に京都の源氏物語ミュージアムを訪れた時も、静かな館内に父の叫びが響き渡った。「これ全部、紫式部が書いたのか!」。そうです、その通りです、お父さん。「彼女はな、おい、天才だぞ!」。みんな知ってます、お父さん。私は焦ったけど、職員の方々も他のお客さんもにこにこと嬉しそうだ。まあ、他人ならそうだよな。
 だが、すべては小さなことだ。貧乏と戦争と炭鉱で鍛えられた彼は、本当に大変な時は、今でも私などよりも遥かに踏ん張りが利く。一昨年、単独で登った山の頂上付近で転倒して、足の骨を二本折った時も自力で下山してきた。信じがたい根性だ。
 翌週になって、入院先から電話をかけてきた。その第一声は「あのなあ、あんまりいい話じゃないんだけどな」。今までに聞いたことのないような申し訳なさそうな声だった。驚いて駆けつけると、父は云った。「大丈夫だ!」。それから声を潜めて「でもな、ここの食事がな、まずいんだよ」。周囲に丸聞こえである。私は声を潜めた大声という現象があることを初めて知った。
 その後、手術を終えた父は十ヶ月ほどで復活。金属が入ったままの足で再び山に登り出した。下山するたびに、写ルンですを駆使して撮ってきた写真を見せてくれる。少しずつ角度をずらした写真たちを横に並べて貼り付けた手動パノラマ写真(?)もある。「七ツ石山一七五七メートルから雲取山二〇一七メートルに向かって……」のように、山の名前を云う時には必ず標高を付け加えるのも面白い。全部暗記してるんだなあ。
(ほむら・ひろし 歌人)

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