気になるネーミングというものがある。例えば「鼻セレブ」。しっとりと柔らかくて、かんでもかんでも鼻がひりひりしないのが特徴という、ティッシュの高級版である。今では慣れてしまったけれど、初めてその名を知った時は何かの間違いかと思った。それほどユニークなネーミングである。本物のセレブになるのは無理でも、これを使えば何処の誰でも鼻だけはセレブということか。鼻姫とか鼻貴族ではこのニュアンスは出ない。鼻とセレブを直結した大胆さがポイント。俳句の二物衝撃をはじめとして、二つのかけ離れたもの同士を結ぶことで新たな世界を生み出すという詩の技法があるが、ちょっとそれを思わせる。
この「鼻セレブ」から私が連想したのは、寺山修司の句集タイトル「花粉航海」である。こちらは花粉と航海が直結されて詩性を生み出している。「花粉航海」と「鼻セレブ」は二物衝撃仲間でありつつ、花粉症が猛威を振るう現在の目で見ると役割的には敵同士ということになろうか。
最初の衝撃こそ薄れたものの、自分はまだ「鼻セレブ」の引力圏内にいる気がする。その証拠に、類似の商品のことも全部この名前で呼んでしまう。そちらの方が普通に機能や高級感を示すような名前が付いているにも拘わらず、覚えられない。「鼻セレブ」の直感的にわかる感の前に印象が吹き飛ばされてしまうのだ。
初めてその名を聞いた時、一瞬ぎょっとして、それからじわじわと不安な気持ちになったのは「おねんどお姉さん」だ。教えてくれた後輩の話によると、子供番組などに出演して粘土でいろいろなものを作ってくれるお姉さんらしい。ということは、体操のお兄さんの粘土版的なお姉さんなのか。
だが、体操のお兄さんはまったく自然に思えるのに、「おねんどお姉さん」にはざわざわする。「体操のお兄さんの粘土版的なお姉さん」ってなんなんだ、と思ってしまう。いや、水森亜土の昔からお絵かきお姉さんという存在もあるから、むしろその粘土版だろうか、などとあれこれ考えながら、それでもなお不安が残る。体操のお兄さんは体操をするお兄さんだし、お絵かきお姉さんはお絵かきをするお姉さんでほぼ揺らがない。それらに対して「おねんどお姉さん」というネーミングには、おねんどを作るお姉さんという以外におねんどでできたお姉さんという感触が生じるせいかもしれない。
そもそも、「ねんど」に「お」がつくこと自体に違和感がある。私はあれを「おねんど」と呼んだことも、そう呼ばれるのを聞いたこともなかった。その点が「お絵かき」とは違う。二十一世紀の幼稚園では「おねんど」が標準で「ねんど」と呼ぶのは野蛮人なのか。だが、私にとってはやはり謎の丁寧さである。「ねんど」に「お」をつけることで「おねんど」と「お姉さん」が「おね」「おね」と韻を踏むわけだが、それも不安感を増幅する。
「ほむらさん」と後輩は云った。「そんなこと云ってるけど、本人を見たらきっと好きになりますよ」。そうなのか。いや、実際に見るまでもなく、こんなにもその名に囚われている時点で、もう好きになっているのかもしれない。
(ほむら・ひろし 歌人)