子どもの頃、町で見かける看板の中で、こわいひらがなに出会うことがあった。例えば、これ。
ほねつぎ
白い看板に筆っぽい文字で書かれていることが多かった。何をするところなのか、はっきりしないけどこわい感じがした。母親に尋ねると、セッコツインと教えられたけど、やはりよくわからない。母も実際にそこに行ったわけではなく、確信がないようだ。
同級生の話によると、「ほねつぎ」には彼の柔道の先生がいて、折れたり外れたりした骨を治してくれる、ということだった。お医者さんじゃなくて? と私は驚いた。
これが「ほねつなぎ」とかなら、子どもの私にもまだ意味というか言葉の雰囲気が掴めたと思う。でも、「ほねつぎ」。その微妙な文語っぽさが非日常を感じさせた。そこにはお医者さんとはかけ離れた柔道の先生が体を治してくれるという異世界の雰囲気があった。
その他に、こんなのもあった。
かけはぎ
なんだろう。やはり、とてもこわいことをしている印象を受けた。こちらは今も意味がよくわからない。インターネットで調べると、着物や洋服の穴や傷や虫食いなどを補修する技術のことらしい。熟練の職人の手にかかるとついだ箇所がほとんどわからなくなるという。この言葉の背後には、手軽に新品に買い換えることを推奨される社会とは違う、もう一つの世界の体系が感じられる。
こわいひらがなの極めつきは、これだった。
ぢ
高いビルの上などに大きく掲げられていることが多かった。巨大なひらがながただ一つ、しかも赤い文字なのだ。「じ」ではなくて「ぢ」というところに呪術的な何かを感じた。
やがて、漢字にすると「痔」だということを知った。持薬専門であるヒサヤ大黒堂の広告だった。でも、と思う。「ぢ」とは病名ではないか。「はらいた」とか「いんふるえんざ」という広告を想像すればその奇妙さがわかる。普通なら、薬の名前や効能や発売元の情報を示すところだろう。そのすべてを切り捨てて、何故、「ぢ」と障りの名称のみを大きく掲げるのか。不思議だけど、そこに惹きつけられる。この感じ方は私だけのものではないはずだ。「ぢ」の一文字は、どんなにキャッチーな広告コピーにも勝る効果を上げていると思う。言葉の後ろにある世界の大きさが違うのだろう。
こわいひらがなたちは、世界が合理性や資本主義や整備された法律によって一元化される前の別世界の匂いを放っている。