自然科学などの分野で新しい発見があったら、それは世界が更新されたという意味になるのだろう。矛盾する事実は共存できない。現実世界では正しさとは常に一種類なのだ。だが、間違いはそうではない。日常生活で出会ったユニークな間違いは、現実とは別のもう一つの世界を作り出す。
こんな短歌がある。
エンジェルを止めてくださいエンジンの見間違いだった地下駐車場 戸田響子
「地下駐車場」で見かけた「エンジェルを止めてください」は「見間違い」だった。正しくは「エンジンを止めてください」。だが、それが間違いであることがわかるまでの数秒間、作中の〈私〉の心は別世界に飛ばされていた。「エンジェル」は地上で何をしようとしているのか。止めないとどんなことが起きるのか。「止めてください」と頼んでいるのは誰なのか。もう一つの世界は、既知の現実世界よりも不穏なときめきに充ちて美しい。
もう一首、挙げてみよう。
わたつみをはしる真夏のハイウェイは「鮫に注意」の標識光る 木村一雄
「エンジェルを止めてください」とは違って、「鮫に注意」は見間違いというわけではない。その「標識」は遊泳者に向けたものだろう。だが、同じ言葉を「わたつみ」の「ハイウェイ」から見る時、「鮫」の存在感が変化する。もしかしたら、それはきらきらと宙を飛んで車を襲うこともできるんじゃないか。空と海が一つに溶け合うような「真夏」の感覚に包まれる。
見間違いや錯覚が、もう一つの世界を生み出す。それは短歌に限らない。こんな宣伝コピーを見たことがある。
ライオンから筋力についてのお知らせ
一瞬、どきっとした。いったい何を「お知らせ」してくれるというのか。
我々ライオンは筋トレをしません。にも拘わらず、強大な筋力を誇っていて、獲物を前にした時は爆発的な速さと強さを発揮することができます。人間の皆さんも、その秘密を知りたいと思いませんか?
百獣の王からの、そんなメッセージが思い浮かぶ。もちろん妄想だ。これは「ライオン」違いである。実際は健康に関する商品の広告なのだろう。残念だ。おまけに、ライオンは筋トレしない云々というのは「ライオン」本人の言葉ではなく、どこかで聞いたイチロー選手の発言が脳内で勝手に再生されたものであった。