以前、この連載の中でこんな短歌を紹介した。
エンジェルを止めてくださいエンジンの見間違いだった地下駐車場
戸田響子
「エンジン」と「エンジェル」には確かに「見間違い」の可能性があると思う。似ても似つかぬもの同士が奇妙な類似点を持つ。そこに気づいた時、書き手の中で詩が成立したのだろう。私にも覚えがある。ところが、自分自身のそうした感覚が、この頃、なんだか怪しくなってきたのだ。
例えば先日、沖縄料理店で食事をしていた時のこと。隣のテーブルからこんな声が聞こえてきた。
「スーパーマン、ちょんぼししか入ってないね」
「ほんとね」
「?」と思う。スーパーマンがちょんぼし、ってどういうことだろう。さり気なく隣に視線を送ると、卓上にはゴーヤチャンプルー……、そうか、と思う。スパムがちょっとしか入ってなかったんだ。納得しながら、同時に不安になる。「スパム」と「スーパーマン」って、聞き違えるにしてはずいぶんギャップがあるんじゃないか。「スーパーマンちょんぼしだねってスパムの聞き違いだったゴーヤチャンプルー」では、ズレすぎていて短歌にならない。
こんなこともあった。インターネット上で「マラリア蚊が大人気」という記事を見かけて、「何故、マラリア蚊が」とびっくりしてクリックしたところ、それがフリマアプリだったのだ。「フリマアプリ」と「マラリア蚊」、見間違えるにはやはり遠すぎる。だいたい「蚊」って漢字はどこからやってきたんだ。
というふうに、このところ、なんだか空耳や空目の射程距離(?)がどんどん広がっているような気がする。一つの言葉をぜんぜん似てないはずのものと取り違えてしまう。その距離があまりにも遠くなると、誰にもわからない世界に入ってしまう。耳や目の不調ならまだわかる。でも、どうもそれ以前の感覚に原因があるような気がするのだ。
言葉と言葉を繋ぎながら世界を構築する小説家と違って、詩人の使う言葉には飛躍がある。韻文においては、一つの言葉の隣に近い言葉を置くことは、つきすぎとして嫌われる。詩的飛躍、二物衝撃、取り合わせ、合わせ鏡、切れ、疎句、ミシンと蝙蝠傘の出会いなどジャンルによって表現は異なっても詩歌の作法には共通性がある。つまり、西脇順三郎のいうところの「遠いもの同士の連結」をその原理としているのだ。西脇の魔術的な言語感覚の奥には確かにその働きが感じられる。
好きな物書きを追ってゆくと、加齢とともにその人の中で、言葉同士の距離感が変化するのを感じることがある。言葉から言葉への飛躍が失われると世界がベタになる。一方、両者の距離が遠くなりすぎると世界がばらばらになる。おそろしい。そうした感覚の変化によって、新たな創作の次元を切り開いた例もあるのが救いだ。
そういえば、晩年の西脇順三郎はギリシャ語と漢語の比較研究に熱中していたらしい。両者の音韻の類似について熱く語り続けて周囲を困惑させた、というエピソードを思い出した。「遠いもの同士の連結」という夢の果てには何が見えたのだろう。