重箱の隅から

墓場とユリカゴ①

 一昨年の6月から9月、隣接するデザイナーズ・マンション(名の知れた建築家による、分厚い打ちっぱなしコンクリ―トを贅沢に使った建物)の解体工事の騒音と振動と舞いあがる塵埃に腹を立てながら、その新しい公共的空間のコンセプトがはなやかに喧伝されていた新国立競技場の設計者(一度採用されたザハ・ハディドに変わって、つつましく自然な木を多用するデザインで有名らしい)による新しい公共空間である、いくつかの図書館がメディアで紹介されるのを何度も目にしたのだが、「本」よりもそれを収納・保存する、いわゆる箱物が話題の中心だった。
 それ等の図書館は、別のデザイナーの設計した物も、巨大な天井までとどく本棚と階段が一体化した空間で、木製の階段は座る場所(岡本太郎の坐ることを拒否する椅子ではなく、階段が椅子になってもいいじゃないか、といった優しい感じ)として利用されもするいかにもフリーな空間である。
 しかし、「大階段の本棚から、好きな本を手にとって読んでいただける予定」のいくつもの空間から私が連想したのは、むしろ本の墓場としてのピラミッドだった。
 墓場の前には当然本のユリカゴが存在する。本はどのように作られ売られたか。
 ’05年に非売品として作られて関係者に贈られた『新潮社一〇〇年』はちょっとした事を調べるときに役立つ社史(’66年に作られた『新潮社七十年』に河盛好蔵の書いた70年の出版文化史的概括も収録されている)なのだが、それよりもっと重宝しているのが80周年の記念品として贈られた西独製の横長のプラスチック・レンズの軽くて使いやすい天眼鏡である。考えてみれば、この新潮社が記念品として配ったエッシェンバッハという会社の天眼鏡が日常的に使われている様子を、私は大岡昇平氏と澁澤龍彥氏のお宅で見たものだったが、その頃の私には、いったいこれを何のために使うのか少しもピンとくるところがなかったのである。ということは、以前にも書いた記憶があるのだが、それはそれとして、先日、石原慎太郎の訃報を目にして新潮社の社史を思い出したのである。
 『太陽の季節』が「文學界」新人賞を受賞しているせいもあって、最初にこの本が上梓されたのは文藝春秋からだと思いこんでいたのが、実は新潮社からだったので驚いたのを思い出したのだ。新潮社(644ページ)社史のいかにもページ数が少なすぎる感のあるカラー図版には、昭和31年と32年を代表している本と雑誌(「週刊新潮」創刊号、井上靖『氷壁』、『ヘルマン・ヘッセ全集』、『太陽の季節』)が載っている。「週刊新潮」の谷内六郎の絵も、ゴツゴツした飾り角がくっついているような文字で作者名を大きく印刷した『ヘッセ全集』も、モノクロで氷壁と登山者が描かれた『氷壁』も、現在でも通用する本のデザインなのだが、これは通用しないと断言できるのが『太陽の季節』の装丁である。もちろん装丁者の名前などは記されていない。仏文学者で批評家でもあった河盛好蔵は「昭和三十一年は、新潮社にとってはまた『太陽の季節』の年でもあった」と記し、「半年に及ぶロング・セラーとなり、二十五万部を売りつくし」「ブームのすさまじさ」が「太陽族」という新語や「慎太郎刈り」という「髪の刈りかたが流行したことをもっても知られよう」と書いているこの小説は、写真で見るかぎり、四六判角背の比較的薄手の厚紙を使ったカバーで、変色して茶色っぽくなっているがカバー用紙は薄いベージュでタイトルは小口寄りに縦で入り、作者の名前は表1にはなく、背に記されている。使用されている装画はミドリ色で印刷されている。海岸の砂浜を示しているのかもしれない横の線が引かれ、その手前に若芽の切れはしとも流木とも見えなくもない植物が描かれていて、『太陽の季節』という若さを連想させずにはおかないはずのタイトルに反して、いわば自費出版の『句集 流木』という趣で、とても若者の先端的風俗が書かれた小説とは思えない。
 もちろん、私が『太陽の季節』を読むのはずっと後のことで、おそらく、われらの文学というタイトルだったと記憶している講談社版の、若い小説家たちの作品を集めた全集だったような気がするが、何組もの日本文学全集が各出版社から発行されていたので、はっきり覚えていないし、講談社の社史は古本屋に売ってしまって手許にないし、PCもスマホもないので簡単に調べるということができないのだが、それはどうでもいい事で、『新潮社一〇〇年』の中で(あえて日本文学史とまでは言うまい)石原慎太郎という名が占めるわずかなスペースで浮かび上がらせている本の内容と装丁のヒエラルキーとでも呼ぶべきものかもしれない。現在はどうか知らないし、いつ誰がどのようにして広めたのかを知らないのだが、新聞の文化欄(の片隅)や、ある種の編集者(と言えば、むろんとっくに定年退職している年齢)が語っていたのを覚えているのだが、新潮社の本作りは丁寧で美しいとされ、同じように、明朝体の活字はその繊細さで精興社の名が伝説的に口にされたものだ。たとえば、心ならずも大衆小説を書いていた作家が純文学に野心を持ったりすると、精興社の活字で組んだ本を念願かなって作った、などと随筆ページで洩らしたりしたものである。
 といったような事を思い出すのは本文644ページ、別刷りの社主佐藤家の歴史を示すモノクロ写真12ページ、雑誌・書籍の紹介カラー・ページ28ページの『新潮社一〇〇年』の中で、雑誌の表紙と紙面、書籍といった、いわば出版社の商品の写真と印刷の質の悪さに、いささか驚いたせいかもしれない。
 確かに、本という紙の束は一種の箱としての立体である。こうした空間の中で、「本」を映像として写真ページで紹介するのは限界があるのは確かだが、このページに印刷されているそう多い数ではない本の魅力のない風情は、ふと、冒頭に書いた本の墓場としての図書館をユリカゴが先取りしているような印象を与える。
 出版科学研究所(という組織がどんなものなのかは知らないが)の資料として『新潮社一〇〇年』の年譜は前世紀末の平成7年度、「出版物の販売金額が初めて実質的に前年比でマイナスになった」と記している。「一九五八年以来、前年を下回ったこと」はなかった業界の出来事である。「また、コミックスも史上初めて前年割れを記録し」、読売新聞がこの年の10月に行った世論調査では「本を全く読まない」という人が全体の40.4パーセントを占め「過去最高になった」と書かれているのだが、この数字が業界に与えたであろう一種のインパクトから22年後、2018年の朝日新聞の社説は「一日にまったく本(電子書籍を含む)を読まないと答えた大学生が53・1%――。」と全国大学生協連合会の調査結果を引用したうえでネット社会の効率が優先される現状で読書が割に合わないと考えても不思議はないし、「肝心の本にしても、出版界の苦境を反映してか、粗製乱造ぶりが目につく。」のだそうである。しかし、「粗製」が的を外れてるとは言わないが、「乱造」と言われる程本の出版点数があるとは思えないのが実感である。
 そして、あの石原慎太郎の処女作(慣例的用語を使えば)の装丁について、自費出版の句集(表1の装画も、もち、老人の著作者本人)みたいだと書いたのだったが、ここで私は最近滅多に眼にすることのなくなった書籍用語というか製本用語の「並製」という言葉を思い出したのである。簡単に言うと、薄手の厚紙を使用した表紙やソフトカバー装の本のことで、戦後の昭和30年代前半に上梓された本にはしばしば「粗製」と書いた方がふさわしいような本があったのを思い出す。そうした造りの石川淳の戦後のエッセイ集や短編集を早稲田の古本屋で安く買い集めた高校生の頃を思い出すが、それはまた別の話で、考えてみれば、昭和31年(と、西暦ではなしに書きたくなる)、意外にも新潮社から上梓された慎太郎の処女作(つい何年か前、「三田文学」誌上で、「新潮」元編集長のインタビューを受けた石原は、足の長さについて言うなら、弟の裕次郎より自分の方が2センチ長い――ちゃんと計ったのだ――と真面目に発言していた)の造本は、戦後最後の並製文芸本として貴重なのかもしれない。スキャンダラスで派手なイメージの『太陽の季節』の初版がどのくらい刷られたかは知らないが、自費出版句集のような造りの本は半年後には「二十五万部を売りつく」すことになる。同じ年に発刊されたもののすぐに無くなったという「新潮叢書」の、山本健吉『俳句の世界』と実は同じ装丁が流用されていると言われても、私は驚かない。
 ところで、昭和31年という年は、22年にはじまった政府の『経済実相報告書』(いわゆる「経済白書」)の戦後的貧困からの脱却を宣言したキャッチ・フレーズ「もはや戦後ではない」が流行語になった年である。前年の’55年の9月30日(と、どんな書物でも彼の死について触れたものには命日が記されているのだ)は、ジェームズ・ディーンが24歳の若さで愛車のポルシェ・550スパイダー(これも必ず書いてある)を運転中に激突事故で死亡し、日本の芸能界では足の長さを競いあう兄弟が、イカス髪の刈り方(私には角刈りや職人刈りというかスポーツ刈りの前髪にトニー・カーチス風の前髪たらしを加えたように見えた)でブームを起こしていたとはいえ、ハリウッド映画を好んだ少し気のきいた青年たちは、世界的にリーゼントに白いTシャツにジーパン、赤い木綿のジャンパーというジミー・スタイルを選んだのだ。’60年代から’70年代にかけてのイケメン人気カメラマン立木義浩や、暗黒舞踏の土方巽などが、青年時代J・ディーンのスタイルを真似たが、石原兄弟は手本にはならなかった。(つづく)