重箱の隅から

「コロナ後の世界」には女はいない、あるいは、分別と多感①

「第一戦で活躍する12人の知性による、圧倒的熱量の論集!」の中に女性執筆者が一人も入っていないので、書名であることを超えて『コロナ後の世界』(筑摩書房編集部編)には、女性は存在しなくなると、作った編集部は考えている(と、いう程のことではなく、まるっきりの無意識)のかもしれないこの本は昨年の9月に上梓されたのだが、もちろん、収められた文章が書かれた時期と現在では、様々な状況が変わっているので、簡単に何かを言うことはできないのだが、こういう本があることを思い出したのは、コロナ・ワクチンの大規模接種が自衛隊の力を借りて行われた5月24日、菅首相が記者たちに向かって、奇妙な薄笑い――笑うのをケチっているような――を浮かべて「なんとなく、、、、、ホッとしている」と発言したからである。
 それがどう12人の知性(第一線で活躍する)と結びついたのかは後ほど説明することになると思うが、ここではとりあえず、女性誌『暮しの手帖』のような家庭誌とテレビの食べ歩き番組を目にする機会を持っている高齢女性の一人として、えっ? と思った、ささやかな疑問を語ることにしよう。
 中島岳志の「一汁一菜のコスモロジー――土井善晴論」(『コロナ後の世界』収録)である。料理研究家の土井善晴は、もちろん原理主義的一汁一菜主義者(というもの、、があるとしてだが)などではないのだし、また近代の有名料理には、それが作られた時の伝説として、料理人の名や料理人と共にそれを作ったことになるのかもしれない食通の有名人の名が冠された、シャトーブリアンやシーザー・サラダやシャリアピン・ステーキのレシピがあるとは言え、一回限りの生物(なまもの)なのだから、オリジナルな料理はあったとしても、そこに「作者性」というものがあるとは、まず考えないだろう。
 中島は「土井にとっての料理は、次第に作者性が解体されていく」と書き、「レシピは設計図じゃ」ないのだから「記載された分量とか時間に頼らないで」、自分でその時々に判断する、という土井の言葉を引用する。料理に「正解はない。というよりも、違いに応じた答えはいくつもある」から「失敗の中にも、正しさはあるかもしれません」と土井は語っているのだが、それは私のような限られた外食の美食体験しか持たないものでも経験したことがあって、銀座のある割烹料理屋で盛夏に出された、卵豆腐が小さな粒状になって冷たい澄し汁に浮かんでいるものなのだが、見た目にも美しくとても喉ごしの良いものだった。これはなんという料理かと聞くと、主人は卵豆腐を作っていて失敗してこうなったと言うのだった。
 土井の提案は、言ってみれば家庭料理を作る立場の人間(それも、料理の本や雑誌に載っている写真のような物を完璧に作ろうとするような熱心な)に、そうきばらずと言っている程のことだろう。大仰な哲学的思考をしなくても、たいていの何十年、十何年と家庭料理を作ってきた人間(家庭料理の場合、ほとんどのそれは女性)なら実践していることにすぎないことだから、中島が何か特別なことを発見したように「土井の料理の特徴は、〈手を掛けすぎないこと〉に集約される。」と書いているのを見ると、そこが女というものの存在しない『コロナ後の世界』であったことを、うっかり忘れてしまう。
 昔から、女性の知人の中には、結婚をひかえて、料理教室に通ったり、有名料理研究家の主催する教室に通った者もいたけれど、考えてみれば、料理を習う、あるいは教える、という制度は、明治時代の女学校と女性読者を対象とした雑誌の記事に始まり、広められたわけだ。そうした、いわば教室料理というか雑誌(メディア)料理に対して不信の念を持った男は(泉鏡花などもそうなのだが、)雑誌に批判的な随筆を書き、一方、母親や妻の作る伝統的な家庭料理や、手が込んでいるのにあっさりした新鮮な物を食べさせる料理屋を褒めたものである。
 とは言っても、地球規模で考えるなら私たちの食生活は、福岡伸一がかつて書いていたように、いわば「私たちの身体はトウモロコシで出来ている」のであり、そうした食生活が未知のウイルスの出現を用意するわけだ。それはそれとして、土井善晴という、雑誌とテレビというメディアを通して知っている料理研究家は、育ちの良い親しみやすい人柄と、人柄を映して簡単そうに見えながら独特の信条の芯がある、とでもいった料理を作る人物で、いつの頃からか「一汁一菜」を提唱しはじめ、『暮しの手帖』にもそうした主張をもって実践された料理(雑誌を手元に残していないし、くわしく覚えているわけではないが、具沢山の汁物に、御飯、漬物のバリエーション)を発表していて、これで充分といったって、それを、一体いつ、どんな状況で誰が作って誰が食べるのか、という疑問を持ったものである。坂口安吾は随筆に、大量の様々な種類の野菜を切って煮込んだスープ(煮返しているうちに、野菜がトロトロに溶けるのが、また、、うまい、、、)を毎日食べていると書いていたが、ある程度どこかストイックなところ(食物に関してだけではなく、世界観として)のある者でなければ、こういった反復、、に、飽きはしないかと思うし、それに土井善晴についてならば、コロナ禍以前、、、、、、、なんとなく毎週見ていたBSの食訪番組のことを、思い出すのである。女性タレントと一軒か二軒の比較的安価でおいしい良心的な店を回り、次はグルメなゲスト、、、、、、、(芸能人)の紹介するお気に入りの普通の高級、、、、、料理店で、ゲスト推奨の料理を味わう。
 最後の店は、むろん、日を改めての取材というかロケーションなのだろう。金持ち夫自慢の主婦雑誌として名高いだけではなく、紙の雑誌としての重さが斯界ナンバー1を誇る『家庭画報』の推奨する、高級なだけでなく新鮮な試みに充ちた凝ったコンセプトに貫かれたいろいろな分野の、今、一番の若手シェフの注目の店で、真剣にフルコースの料理を(ということは、それが供される空間、器、その他諸々)吟味、堪能する食の孤客、、、、としての土井が登場する。シェフに鋭い質問が発せられたりして、サシの勝負、、、、、という言葉も思い出されるが、もちろん、どんな料理だったのかは一つも記憶していない。
 業界では食レポ、、、、とかいうジャンルの番組とは一線も二線も画してはいるだけに、一週間に一度この仕事をするとあっては、年齢からいって、そして決して肥満などではなく、若い頃の体型を保っている土井にしてみれば、残りの5日か6日の食生活は一汁一菜でもちろん充分のはずだ、と私は思っていたのである。昭和22年生まれという土井の年齢のせいもあるが、一日一食で充分な一汁一菜である。ところで、坂口安吾のリゾット風野菜スープは 一汁一切、、、、と言ってもいいし、安吾と違って長生きした無頼派石川淳がある年齢以降、十年一日同じ物を食べつづけたという、200グラムのステーキと少々の野菜、酒、といういかにも偏って異様な、、、メニューは一献一菜、、、、と言うべきかもしれない。
 土井善晴の、というか中島岳志(南アジア地域研究、近代日本政治思想)の世界観である「一汁一菜のコスモロジー」を要約するより、論文の小見出しを書き写すのがいいかもしれない。「1 環境破壊とウイルスの引っ越し」「2 土井善晴――「家庭料理は、民芸や」」「3 レシピという設計主義を超えて」「4 料理というミクロコスモス」「5 後ろから押す力」「6 太陽からの一方的贈与」
 論文中に引用されている土井の「食」についての言葉は、本来、料理というものに、いわゆるオリジナリティが存在しないのと同じで、どこかで読んだことのある、料理人が語る真実というか哲学がかっている本音とでもいったものなのだから、当然、間違っているわけではない。誰もがどこかで読んだことのある正しさ、、、、なのだ。一定の長期にわたって料理を自分でも作りつづけ、教えつづける一方、様々な料理を食べつづけてきた者が持つ、いわば一種の押し付けがましい真実、、である。料理人のオリジナリティを否定して、食物と生命の持つ自然の力、、、、を持ち出す時の押しつけがましさなのだ。
「コロナ後の世界」という言葉が何を意味しているのか、変化しつづけるコロナ・ウイルスが無くなるということのあり得ない世界であることは確かだろう。
 ところで、コロナ以後の未曽有の状況、、、、、、のなかで、ハイな調子の言説の目立つ学者、藤原辰史の『縁食論――孤食と共食のあいだ』の書評(東京新聞’21年1月23日)を玄田有史は次のような自身の経験から書きはじめる。
「コロナ前、居酒屋のカウンターで呑んでいた。たまたま隣り合わせのご縁となった人から、美味(おい)しそうな肴(さかな)を「おひとつ、どうぞ」となった。だが、店の人からは「食べたければ注文して」と、きつくたしなめられる。さように縁と食を結ぶのは、案外難しい。」。書評という短い(うえに雑駁な)文章から状況を推しはかるのは大変むつかしいのだが、こうしたことがコロナ中、、、、のことであれば、店の者が注意するということもあり得るだろう。しかし、どんな形態の肴を「おひとつ、どうぞ」となったのか、自分の箸で取り分けても不潔感のないもの(フグのカラあげとかカラスミを大根ではさんだものといった)だったのなら別だが、これが当店の名物のモツ煮込みだったりすると、「きつくたしなめ」る清潔志向の強い店の人がいてもある程度は理解できる。鍋料理というのならともかく、いろいろな物が一緒になっている料理の小鉢に他人が箸を入れるのが我慢できないのだろう。理解はできるが、居酒屋向きの感性ではあるまい。見識の高さを客がありがたがる、対面式カウンターの割烹料理屋の店主のようではないか。こういう店とは縁がないが。「食べたければ注文して」とまで、きつく言われたのでは、すぐさまではないにしても、私ならば、勘定をすませて、隣の人にお礼とおわびを言って店を出るだろう。それが一番、不快さを増やさずにすむやり方に思えるからだ。
〈この項つづく〉

関連書籍

こちらあみ子

金井美恵子

新・目白雑録

平凡社

2090.0

  • amazonで購入
  • hontoで購入
  • 楽天ブックスで購入
  • 紀伊国屋書店で購入
  • セブンネットショッピングで購入
こちらあみ子

金井美恵子 ,金井久美子

たのしい暮しの断片

平凡社

3300.0

  • amazonで購入
  • hontoで購入
  • 楽天ブックスで購入
  • 紀伊国屋書店で購入
  • セブンネットショッピングで購入