重箱の隅から

どのように言葉は痩せたと言うのか③

 東日本の震災時にも、言葉が痩せる、、、、あるいは貧困化するといったような変化、、を強いられる事態を憂慮する(のは、もちろん、言葉を使用することが職業上の理由から倫理的に常に問題化というか意識化される、文科系の学者や批評家や作家たちである)者たちはいたのだが、その時は、コロナ下、つい使いたくなってしまうのかもしれない病い、、の比喩による痩せ細る、、、、といった言葉ではなく、高橋源一郎によれば「ことばの戒厳令状態」である。「こんな時期にそんなことばを発してはいけないという『自粛』が始まって、自由にモノを言いにくい空気が広が」ったと、高橋は指摘したのだったが、コロナであれ大規模な災害の直後であれ、どちらにしても、そうした「ことば」や言説の例文が引用されるわけではないので、実のところ具体的にどのように痩せ細り方や自粛が「ことば」にもたらされたのかはわからず、それは、そうした気分や雰囲気を自覚無しに反映させている「ことば」のことなのかもしれない。
 しかし、さて、前回に記した同じ日付(5月27日)の「天声人語」(朝日新聞)と「筆洗」(東京新聞)の驚くべきそっくり加減である。両者は長野県中野市でおきた「地元在住の市議会議長の長男」による警官二人と高齢女性二人の殺人とその後の立てこもり事件について書いているのだが、中野と言えば明治の国文学者高野辰之作詞の『故郷(ふるさと)』を思い出すらしく、東日本大震災時にも盛んに歌われた歌詞を引用して「日本の原風景」(天声人語)、「自然豊かな信州の里が、日本人の琴線に触れる曲」(筆洗)とはいかにもそぐわない凶行が行われたことにショックを受け、「如何にいます父母」を両者ともに引用する。「天声人語」の方は、犯人の両親の心情を思い「親の愛情や地域の人々の励ましに支えられた日が、男にもあったろうに」と嘆き、片や「筆洗」は、この詞を書く少し前に母親を亡くした高野が「肉親を喪う悲しみを知るゆえ、生まれた曲」かもしれないと推測しつつ、「事件で突然、愛する家族を喪った人の悲嘆を思う」のだった。
 多少の違いはあるものの、ほとんど同じ主題(ふるさと、父母、友)で歌詞を引用して、二番だったか三番だったかを読めば志を果したらいつの日にか帰らん、という故郷に錦を飾る類いの立身出世主義の明治の歌であることは、あからさまなのに、自然豊かな里山が日本人の琴線に触れる安っぽいフィクションのフルサトになってしまう、と書いていた矢先、ロシアの民間軍事会社ワグネル(註1)の創設者のプリゴジンの乗った自家用機が墜落し、彼の死亡が伝えられ、翌日8月25日の朝刊のズイヒツ調コラム「筆洗」では、この事件からコッポラの『ゴッドファーザー』の身内の裏切りに対する報復とその「後の展開を震えながら思い出」し、伝えられた情報から凡庸なあれこれを憶測し、「ロシアの中で、何が起きているのか。闇の奥をのぞくのが恐ろしい」と書き、「天声人語」(それにしても、なんと言う、志の高そうなタイトルだろう。人語だけではなく天声も伝えるの意か?)では、「昭和を代表する名作映画、、、、、、、、、、、『仁義なき戦い』シリーズ」の「きつい広島弁がなぜか、遠くロシアの方から聞こえてきたような気がした」と言うのである。どういうつもりなのだろう。
 両者とも、ロシアの政治的粛清から映画の中で見たヤクザとマフィアの抗争を連想するのであった。この新聞一面下方のコラム(この場所に置かれたコラムは看板コラムとでも言うのかもしれない。かつては、高校・大学の入試問題に小林秀雄と共に頻出し、現在では、それを新聞社で売り出している専用ノートに書き写す作業が高齢者にはボケ防止、弱年者には芥川賞をもらえるかもしれない文章の練習に役立つと言われている)の、不可解なこうした傾向、ロシアのプーチンとプリゴジンの権力争いの喩えにマフィアやヤクザの争いを持ち出す是非はともかく、その前に『仁義なき戦い』シリーズを、個人的な好みは別としても、あたかも「天声」であるかのように「昭和を代表する名作映画、、、、、、、、、、、」と断定するのは映画史的にいかがなものか。
 いささかとは言え、日本映画史を知らなくはない者として、『仁義なき戦い』の評価はもっと複雑な要素がからんでいることくらい知っているわけで、「天声人語」の書き手が『日本映画作品大事典』(山根貞男編)のこの項目を読んでいたら、もっと上品と言うか、すくなくとも知的な文章が書けたかもしれない。
『仁義なき戦い』シリーズの第一作は「原爆雲からはじまる戦後史」であり、「戦後の広島やくざ戦争を実録風に描」き、「従来の任侠映画から一転、やくざが仁義を踏みにじって欲望をぶつけ合う群像劇で、人間喜劇の面白さにあふれ、ヒット」し、「菅原(文太)をスターの座に押し上げ、東映の任侠路線に終止符を打ち、実録路線に転換させた」という事実を知ることが出来るはずだから「広島のけんかいうたら、とるかとられるかの二つしかありゃせん」とか「調子に乗りやがって、ええ加減にせえよ」などとのんびり思い出して感想を記すのはいかがなものか。「天声人語」は、調査による事実によって書かれる記事ではなく、新聞記者の時事エッセイであるなら、なおさらコッケイである。

 私たちは、当然のことだが個人的なレベルの狭い範囲でならば新しい発見というものに出あうことが、それでもそれなりの新鮮な驚きをともないつつ起こり得ることだと経験上知っているのだが、たとえばAIによって書かれた記事と人間のジャーナリストの書いた記事の違いについて弁護士は次のように発言する(「メディアと倫理委員会」の森亮二委員の発言。朝日新聞8月18日)。「AIは、取材はできないし、正確性の保証がない。何といってもどこにも書いてないことは書けない。要するに二番煎じしかできない。どこにも書いてないことを書くのは、まさに新聞のミッション。(AIを)過度に警戒しなくてもいい」
 かつて、H・ホークスの『ヒズ・ガール・フライデー』(’39)の喜劇的なケイリー・グラントを含めて、どこにも書かれていないことを物にすべく苛烈な特ダネ(スクープ)争いがある一方、松本清張的社会派小説の中では、上からの命令で握りつぶされる類いの政治的内容の記事があるのが戦後のジャーナリズムなのだったが、弁護士の発言から、私たちが思い出すのは、文藝春秋から上梓された立花隆の『田中角栄研究』(’74)について、ここに書かれているようなことなら、自分たちはとっくに知っていた、と新聞記者が発言していたことだ(註2)。ウォーターゲート事件も、ボストンのカソリック教会での恒常的な少年に対する性的虐待事件も新聞というメディアが調査とインタヴューという技術を使って明らかにした事件で、そうした事例は、平凡な新聞記者が、何かに目覚めてヒーローになってしまうハリウッド映画でおなじみである。メディアという以前はもっと巨大だった権力をバックにした記者という個人は、別のタイプのヒーローである軍人や警察官や弁護士のようには、国家の法律に属した存在ではないので、より民主主義的というイメージに結びつくのだが(註3)、考えてみれば(考えなくても、だが)私たちにとって新聞というメディアが何といちばん密接なものとしてイメージされるかというと、家庭である。
 それは毎朝(何十年か前までは山口百恵も家計を助けるためにやっていた中学生の新聞配達少年・少女がいた)家庭に配達されるものであるのと同時に、一九世紀、家父長が家族に読み聞かせるものから、南北戦争による読む物を選別する父親の不在を契機に、娘たちが家族間のニュースを伝える新聞を手作りすることが、ルイザ・メイ・オルコットの『若草物語』では語られる。
『若草物語』が語られたり映画化されたりする時に忘れられがちのエピソードではあるが、家庭新聞や学級新聞や少女雑誌内での新聞のように、レイアウトされたコラムはよく知られた少年少女の経験である。マーチ家の四姉妹は、次女のジョーを中心に家庭新聞、、、、を作っていたのであった。
 これらの新聞には、「どこにも書いてないこと」が書かれていると同時に、どの家庭、どの学級、およその少女雑誌でも、起こり得る出来事の「二番煎じ」以上のことが、ジャーナリズム的文体、、、、、、、、、、(自身が拒絶するふりをしてみせる〝手垢のついた表現〟のことだ)を真似て書かれていたのだった。
(つづく)

註1 ワグネル、、、、は、むろんヒットラーが愛したワグナーのことで、この集団のネオナチ性を示しているのだが、一方、ウクライナのマイダン革命で活躍した「アゾフ大隊」は「反共・反ロのウルトラナショナリスト民兵集団で、日本の公安調査庁でもネオナチと認定している。」(連載20回の「生活困窮者を前に新しい児童図書館は有効か②」を参照)
註2 BBCの放映によって、それを誰もが知ること、、、、、、、になったと言うより、高級なメディアこそ、、が、きちんと子供の権利問題として扱うべき事件だったと認識されつつ、、、、、、あるような、ジャニーズ性加害事件の記事も、子供の権利問題とはまったく無関係とは言え、以前から「週刊文春」の扱う売りのスキャンダル、、、、、、、、、の一つであった。
註3 朝日新聞「メディア委員会」の森委員(弁護士)は新聞の価値を「権力との対峙」だと述べているが、それは、新聞
(メディア)ではなく報道(ジャーナリズム)の問題だろう。メディア王、、、、、という言い方はあっても、ジャーナリズム王という言い方は聞いたことがない。ところで、石川淳が旧制高校の教師をしていた時、「新聞」というテーマで学生に作文を書かせたところ、一人だけ「新聞紙」について書いてきた学生がいて、それが花田清輝だったという、ある方面では有名だった伝説がある。
 

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