重箱の隅から

墓場とユリカゴ②

「遺稿」と「絶筆」はどう違うのだろうか。
 どっちにせよ、それが故人の最期と関わるものであることは理解できるのだが、もとよりわずかなこととは言え、それが気になったのは、書き手が作家や小説家とも呼ばれていた人物のせいかもしれない。反中国と反ロシアに貫かれている総合雑誌「文藝春秋」4月特別号のもう1つの柱は、〈絶筆 石原慎太郎「死への道程」〉であり、同月の文芸誌「新潮」の表紙には〈遺稿「遠い夢」石原慎太郎〉と印刷されていて、目次には「死の直前まで執筆を止めなかった作家が遺したのは、多感な少年と少女の淡き恋だった。」という、なんとなく気の抜けた調子のコピー文が附されている。
 もともと深く考えてもみなかった言葉だが、一人一回というイメージがあるのは確かな、死に関係した2つの言葉が、1人の小説家に2度使われる例を知らないのだが、「遺稿」と「絶筆」はそこに、あくまで具体的な作者の死の事実が関係しているものの、意味が異なるのかもしれないし、遺稿は死後かなり後で発見されたりするような気が、なぜかするのだ。いささか旧聞に属するものの、確か差別語問題だったかに因を発して、絶筆宣言(休筆ではなかったと思う)を行った作家がいた記憶もあるので、ごく単純に辞書を引いてみることにした。集英社版『国語辞典』の絶筆には、「書くことをやめること」という語釈が載っていないのが奇妙で、思わず絶句だが、他の辞書では②として載っているし、①は故人が生前最後に書いた文字・文章・絵画という説明が書かれている。
 遺稿の方は、それぞれの辞書が、「発表されないまま死後に残された原稿」「死者の残した未発表の原稿」「死後に残された未発表の原稿」と、未発表に重点を置く説明をしているように読めるが、遺作の説明もほぼ同文で、未発表という言葉が使われているのは、ようするにそれがまだゲラに組まれておらず、執筆中の最低限の推敲は別として、校正も著者校も行われていないままの原稿ということなのだろう、と石原慎太郎の、2つのいかにも若々しい文章(絶筆と遺稿)を読んで納得したのであったが、しかし、そんなことよりも感銘を受けたのは、絶筆文中でもやはり言及されている『太陽の季節』の存在かもしれない。医師に3カ月という余命を告げられて以来、「私の神経は引き裂かれた」ものの「幸い私は今のところ性的に不能でもないが」と唐突に虚しく誇りもする絶筆の書き手は、「私の文学の主題でもあった「死」」でもあるところの死を目前にして次のように書く。
「『太陽の季節』なる小説でいささか世に名を馳せた私が己の季節の終りに関して駄文を弄している今、美空ひばりの世に軽いショックを与えた最初のロックの文句ではないが「いつかは沈む太陽だから」こそ、」(傍点は引用者による)と、苦し気な息つぎをし、「私」という言葉が呪文のように繰りかえされて、石原的文体としてはかなり長いセンテンスの文章に句点がとりあえず記される。
「あくまでもこれまで私が比類のない私と言う歪な人間として生きてきた事を消しても消えぬ記録として、私として全くの終りの寸前に私の死はあくまでも私自身のものであり誰にもどう奪われるものでありはしない。」さらに「駄文」は数行続くのだが、芥川賞の主催者である「文藝春秋」は「私」が「いささか世に名を馳せ」ることになった原因である小説の第34回芥川龍之介賞決定発表の9名の銓衡委員の選評(到着順)と受賞者の「感想」、受賞作全文を、当時の誌面の再録として掲載しているのが、ことの外に興味深かった。
 思えば(という程のことでもないが)、1989年、ベルリンの壁の崩壊という、東西冷戦の終わりを告げる大きな前ぶれとしての歴史的事件を記念すべく(おそらく、そう考えたのだろう)、当時の日本のテレビ局は、かつて60年安保当時の「若い日本の会」のスター的存在で、むろん89年当時でもスターであった2人の作家を、まだ完全には取り壊されていない壁の上に立たせるという劇的演出のもとで、あまり意味があるとは思えないテレビ的会話をさせたのだったが、当時の石原が文学上はもとより、政治的地位がどういうものであったか記憶などしているはずもないが、5年後にノーベル文学賞を受賞する大江健三郎は、確実で堅実な(それだけに、作家的苦悩と冒険に充ちた)世界的作家としての仕事をしていたのは年譜を調べるまでもなく確かなことであり、後に東京都知事になることが自民党政治家としての最高の地位という事になる石原の、大江に対する無意識とは思えない、えらそうなマウンティング的振舞いを見るにつけ、ああ、この人は小説家として、死ぬ時まで〈『太陽の季節』の「芥川賞作家」〉と呼ばれるのだろうなあと、ゆくりなくも思ったのだったが、いわば、文藝春秋100周年「文藝春秋」4月特別号の石原特集(「絶筆」と芥川賞発表時の選評と作品の全文、4男の追悼と、亀井静香――大江が嫌悪する政治家のステロタイプであるらしい――の追悼「三途の川で待ってろよ」)は、若かった私のちょっとした感慨を完璧に文字化していたと言えるだろう。私たちが読むのは、今や活字のコピーなのだ。
 再録された昭和31年の選評を読むと、なんと、候補作に藤枝静男の『痩我慢の説』があがっていて、私は本棚から藤枝の全集を取り出して読んでみたのだが、ここではあえて感想は述べる必要はあるまい。ところで銓衡委員の宇野浩二は、持ち前の率直さが痛烈な皮肉に通じるユーモアで、銓衡の成りゆきについて書いている。これを外すと引用する機会などあるとは思えないので引用することにしよう。席上、誰が云ったのか「シブシブ」という言葉が口にされたことで以前にも、「やはり、誰かが『目をつぶる』(つまり、「欠点を見ぬふりをして咎めない」)と云つたことを、思ひ出し」、この委員会でしばしば「シブシブ」と「目をツブル」を経験をしたことについて「アリノママに書い」て、「あちこちで大へん憎まれた」ことに触れ、『太陽の季節』への授賞を「積極的に主張したのは、舟橋聖一と石川達三の二人」で「シブシブ支持したのは、それぞれ強弱はあるが、瀧井孝作、川端康成、中村光夫、井上靖、の四人」で「不賛成をとなへたのは、佐藤春夫、丹羽文雄、宇野浩二、の三人」で、「何としても『授賞』を決定せねばならぬ」時、たしか「係りの人」が、「都合、「六人」となるから、俗にいへば、「多数決」だ、といふことによつて、『太陽の季節』ときまつた次第である」。
 戦後生れの私たちの世代の者にとっては、まるで実感のない、たかだか芥川賞史にすぎないし、俗にジャーナリズムで言われた「既成文壇からむしろ悪罵と嘲笑の集中攻撃を浴びた小説」(河盛好蔵「新潮社七十年」)という言説も、当の小説『太陽の季節』を読めば、逆説的にもあきらかに評価されすぎであることがわかる。
 とは言え、『太陽の季節』が芥川賞を受賞した1956年以後、平凡社のビジュアル雑誌の誌名は別として(そして、新人の書く小説のタイトルとして、この言葉は避けるべき筆頭であったろう)映画のタイトル上の天空(配給会社で超訳の日本語タイトルを作る洋画も含めて)には、いくつもの太陽が光り輝くのであった。『太陽がいっぱい』が原題通りに地味な男性のフルネームだったら、いかにアラン・ドロンとはいえ、あれほどに当たっただろうか。『青春残酷物語』、『日本の夜と霧』と大島渚は、先行する社会的話題作のタイトルを巧妙にジャーナリスティックなセンスで利用するのだったが、『太陽の墓場』(60年8月公開)は、こちらの方が石原慎太郎作品より先行しているし、芥川賞作品の小説を映画化するのであれば、むろん『飼育』(61年2月公開)を選ぶのである。
 それはそれとして、女性の妊娠・出産可能年齢を産卵後に死ぬ鮭の一生と同一視した東京都知事の発言(人間の男が80、90になっても妊娠させる能力があるからエライという含意が、もちろんある)は、オス鮭エリート主義とでも呼ぶべきいかにも低次元で無教養なもの(むろん、私たちは鮭に教養を求めないが)であり、オスの鮭全員が、産卵される卵にむかって射精できて自分の個体のDNAを残せるわけでもないことを知っているのだし、石原自らが「絶筆」について、おそらく文学的喩えとか謙遜などではなく、極く素直に発しているように思える「駄文」という言葉を眼にした者としては、同じ人物の鮭に関する愚鈍な「駄弁」を云々するつもりなどないのだが、同世代の作家としてデビューした大江健三郎が、鮭の産卵についてどう書いていたかを思い出さずにはいられない。
『政治少年死す(「セブンティーン」第二部)』(61年2月「文學界」)の主人公の少年は、あの政治家刺殺事件を決行する前の一時を豊かさと静かさと妊娠している牝たちの持つ充足しきった満足に満たされた農本主義の農園の「太陽のもとでの労働」にいそしみつつ、作物をはぐくむ豊かな土が、墓場のために用いられることの「芽ぐみ実のり熟する大運動の軌道の成長感」を胸中に充実させ、「待ちのぞんでいた天からの声《さあ、おまえはもう充分だ、行け!》を聴く、そしてその瞬間、おれたちはすべてを放棄して、排卵後の鮭のように身軽に、まっしぐらに行く!」(傍点は引用者による)。生物学的には、産卵後の鮭は役割を終えれば死ぬのだから、石原慎太郎は生物学的には間違っているわけではなく、いろいろな意味で言語感覚がなかったのである。
 しかし、大江健三郎のあふれかえって増殖するみずみずしく柔らかな傷つきやすい言葉の芽や卵や水の中での鮭の産卵後の身軽でまっしぐらの泳ぎとは! この生物学的には間違っている比喩のかぎりない美しさに思わず笑いつつ、私はこの小説を愛している、とつぶやかずにはいられない。(つづく)

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