重箱の隅から

ボロとは衣類のどういった状態なのか

 まぎれもなくボロという表現がふさわしい灰色系の衣類をまとった、乞喰という存在が繁華街にいたのはいつの頃までだったろうか。あるいは、野良着と呼ばれていた、古い木綿や麻の着物に何枚ものつぎを当てた藍染と灰色の混り合った労働着もボロと呼ばれていたはずだし、落語に登場するつぎはぎだらけの貧しいボロの衣類は、五十三次(継ぎに掛けた洒落)などと言い表わされたりしていたのだが、いつの頃からか、丈夫なうえに色褪せないのが特徴の化学繊維のせいなのだが、そうした衣類は、着古せば布地が擦り切れて破れたり穴の開く自然繊維が作り出す、昔日のいわゆるボロを発生させないまま、流行遅れの古着になるのである。そういう時代なのだから、ボロについて、昔の知識で考えても無駄なのだ。漢字では「襤褸」と書く、どことなく「髑髏」というおどろおどろしい文字に似ていなくもないこの言葉は、かつて、様々な派生語を持つ使い勝手の良い言葉で、人に見せては、、、、、、まずい欠点、、、、、などが明るみに出てしまったことなどを、ボロを出す、と言ったり、そうならないよう、一種姑息にふる舞うことを、ボロを隠すと言ったりしたのだが、今日の使われ方は、どうやら違うようなのだ。
 ある日(今年になってからのことだ)、夕刻のテレビニュースを見ていたら、元歌舞伎町のホストが、暴力団がらみの売春システムについて説明していて、どういう女性がホストの推しに走って借金漬けにさせられて売春をするはめになるか語っていた(註1)。だましやすい典型的なタイプが、田舎から出て来たてのボロを着た若い女の子、、、、、、、、、、だと言うのだった。
 このボロという言葉の使われ方で思い出したのが、連載20回目(「生活困窮者を前に新しい児童図書館は有効か②」)に書いた、ロシアのウクライナ侵攻直後の「アエラ」(’22年3月21日号)で、マルクス経済学者が、ゼレンスキーが「ショー」のように「ぼろぼろの服を着て、追い込まれて大変だという雰囲気を醸し出しながら」民衆には「武器を取って戦え」と言っていると発言していたことだ。
 むろん、この2つの例における「ボロ」がボロを襤褸と書くことのあった時代のボロとは違うことは当然なのだが、元ホストの使用例は、戦前だったら、ヤクザの女衒ぜげんが一張羅の銘仙を着て繁華街に遊びに来た田舎出の女中さんがひっかかりやすいと言うニュアンスらしい。今日では、眼を疑うほどに安い値段のファスト・ファッションを着た女の子のことなのだろう。安物のファスト・ファッションを売れっ子の悪徳ホストがボロと呼ぶのはそれなりに理解できるのだが、22年当時、この攻撃を親ロシア派が支配する「ドネツク、ルガンスク両地域の独立を条件とした限定的な」ロシアによる条件闘争的戦いぶりと見ていたマルクス経済学者の言う「ぼろぼろの服」という物は、いまだに訳がわからない。
 なにか、普通に流通しているように見えていながら、まるで別の意味で使われている言葉というものがあるのだろう。「バカ」という言葉がそうであるように。あたかも別の意味を社会的に得たかのように流通しているものの、そんな概念がある訳のない合成語の「科学技術」について蓮實重彥は、どんな辞書にも載っていない言葉と書くのだが(「ちくま」’23年5月号)、私の持っている数少い辞書の中の一冊(「日本語大辞典」’89年第一刷)では①として、「科学および技術の総称。科学と技術の関連性とその必要性を、、、、、、、、、、強く意識、、、、し、それをひとまとめにして、、、、、、、、、、、論ずる場合に、、、、、、よく使われる、、、、、、。science and technology」(傍点は引用者)と、限定的で特殊な性格の言葉として説明し、英語での表現は、ひとつづきの科学技術ではなく「と」によって結ばれる二つの言葉になっている。この言葉から私たちがすぐに連想する言葉は、ビジネスである。②の語義説明は、一般的かつ商機に満ちた前途洋々といったイメージの「自然科学の成果を実現し、実用化するための技術」で英語表現は「と」抜きのscientific technologyである。辞書的項目には科学技術庁が続く(註2)
「バカ」という簡潔で短い言葉は、前々号で触れたように俳句界の一部で「名誉に傷」や人格や品位にかかわることとして問題化されたらしいのだが、私は朝日新聞のごく小さな一段組の2つの記事として知っているだけであるにもかかわらず、と言うかそれだけになおさら、この使いなれた言葉に対して行われた抗議に違和感を覚えたのであった。
 考えてみれば、言葉の使われ方に対する違和感というものは、誰だって、間違った言葉を使うくらいのことはいくらでもあるだろうし、何かについて間違った解釈をすることもあるのに、他人が使っているのを見ると、急に校正でもやっているかのように、アカを入れたくなる癖のことかもしれない。
 たとえば、自分の発言の言葉づかいが、新聞記者たちの書き違えによって、思いもよらぬ流行語のように広まったアトランタオリンピックのメダリストは、今になって(朝日新聞’23年8月23日の文化面インタビュー)「自分で自分をほめてあげたい」など言ったことはない、と語る。「自分に対して何かを「してあげる」なんて言い方、しない」と言うのだ。「自分をほめたい」とは言ったが、あげたい、、、、などとは言っていない。自分をほめたい、、、、、、、、といういろいろな意味ですっきりと中性的な、ある意味素っ気ない言い方に対して、あげる、、、ではアスリートというより甘ったれた自己満足のように聞こえるではないか。本当に自分の言った言葉は、ほめたいだったと訂正するのに27年の年月が必要だったということだろう。有森裕子は「誤解」が広まったのは「ほめたい」という言い方が「日本人の感覚の言葉じゃない」からだったと推測し、「仏教圏の慈悲文化と、キリスト教圏の奉仕文化の違いがありそう」と発言するのだが、この発言も、あるいは記事を書いた仲介者である記者の思い込みによって違えて伝えられているのかもしれない。
 谷崎潤一郎は大阪船場出身の女性と結婚して、彼女が犬にエサをやったり、、、、庭の草花に水をやったり、、、、することに、あげる、、、と敬語というか丁寧語を使う不快さに苛立つのだったが、それは犬や植物にまで気取って使って関東の人間には、いささかバカに見えもする敬語でも丁寧語でもなく、関西(あるいは船場?)では普通の言い方であることを受け入れることになる。谷崎はあげる言語圏、、、、、、の居心地の良さを受け入れたとしても、また、今日では吉本系のお笑い芸人の使う、船場の上品な関西弁とは全然異なる関西方言が、めっちゃ、、、、使われているにしても、有森裕子は「自分に対して何かを「してあげる」なんて言い方、しない」とはっきり言っているのだから、それには耳を傾けておくことにしよう。彼女はそれに耳障りな自己愛を感じていたのだろう。
 それから、すでに27年が過ぎているのだから、「自分で自分をほめてあげたい」という言葉を目にすることはほぼなくて、それに似たニュアンスの言葉は成功を目指す女子たちの消費行動を表す言葉に変化したようである。ガンバった自分をほめてあげたい時、若い女たちはどうするか。もちろん、幾分高価で贅沢(それぞれの可処分所得に応じて)な消費をするのであり、それは「自分にご褒美」という言葉によって言い表わされているようだが、もちろん、ある程度年配の女は、よほど瑞々しく幼稚さを保っていないかぎり使用しない言葉であり、それは巧みにカロリーが抑えられているにもかかわらず、値段はかなり高級でちゃんと美味しいスウィーツを食べて、ウンッ? という表情で小首を傾げ視線をやや上方にむけて、テレビの街頭インタビューに嬉しそうな表情で「罪の意識を感じなくていい」と答える言い方に似ている。罪の意識は、それを食べられない貧しい多数者たちに向けられるのではなく、やり抜くと決めたはずのダイエットの目標を逸脱した時に、何度も感じた自分の愛すべきダメさに対するものなのだろう。
 ところで、今日(2月28日)は「バカヤローの日」なのだそうだ。語呂合わせで命名した2月22日は猫の日(トラーを覚えていてくださる知人からカードをいただいたりするのである)で、毎月29日は肉の日だということは知っていたし、4年に1度しか歳をとらないという冗談を気に入っていたマキノ雅弘の誕生日だということも知っていたが、「バカヤローの日」とは何事なのか?
 今日の東京新聞の1面の紙面紹介コーナーの小コラム「きょうは何の日」欄も、朝日の27日夕刊コラム「素粒子」も「バカヤローの日」に触れているのは、むろん、自民党の「裏金議員」問題があるからで、1953年、「吉田茂首相が衆議院予算委員会で西村栄一議員の質問に対し「バカヤロー」と発言。これがもとで衆議院が解散。いわゆる「バカヤロー解散」です。」という文章が載っている。
「バカヤロー解散」というのはなんとなく知ってはいたものの、なにしろまだ年齢が一桁の時代のことで、これは議員(いやしくも、とマクラ言葉のつく)をバカヤロー呼ばわりは無礼きわまりない、といったニュアンスで吉田の傲慢な態度が批難されたのだ。幼年の私でさえ、この時代、映画館で見るモノクロのニュースに映し出される、三井鉱山首切り反対闘争や内灘闘争のことを、ぼんやりと覚えているくらいで、吉田茂は子供にもわかりやすい悪役で、他人をバカヤローと言って、なんの不思議もないイメージがあった。
(つづく)

註1 かつて河合隼雄は、女子高生のなぜ売春はいけないことなのか、という質問に、魂に悪いから、、、、、、だと答えていたのだが(大江健三郎が引用していたのではなかっただろうか)、買春する男たちの魂に良いか悪いかはどう考えていたのだろう。いずれにしても、私は魂というものについて考えたこともないのだが。
註2 たとえば「出版科学研究所」というものがある。そこでは毎年か毎月か、「紙の本と電子書籍を合わせた漫画」の「推定販売金額」を発表したりするらしいのだが、ようするに二つのスタイルの書籍の売上のデータの統計が研究されている、、、、、、、のだろう。データとその分析(!)を科学と称しているようである。

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