重箱の隅から

どのように言葉は痩せたと言うのか①

 そんなことがある訳ない、という感想を持つ――抱く、とジャーナリスト風の言葉を使ってみたい気もする――ことになるにもかかわらず、大学での専門というか肩書きを根拠に求められた新聞紙上でのインタビューや短いエッセイの中で見ようによってはごく自然に通用してしまうのが、哲学者、社会学者、科学者、科学歴史学者、歴史学者、そして作家という存在ではないだろうか。
 ジャーナリストたちの書く文章(のようなもの)は、おそらく、そうした知的存在(女性も含まれている)の発言を要約することから発しているのだから、たとえば「折々のことば」と名付けられた朝日新聞朝刊一面の小さな小さなコラムの持つ、短いゆえの説明不足のせいだけとはとても思えない、甘い口当たりの文章を読むたびに、絶望的などと言うと評価が高すぎるように思えてしまいそうな、アカデミックっぽい素直さとでもいった、案外、図太く骨太な精神によってつまみ取られた、あの「ことば」たちは、いったい、何なのだろうか、と朝の短い時間に一瞬、思い、すぐに忘れてしまうのだったが、にもかかわらず何か妙な違和感が残るのであった。
 もちろん、私はこの嫌な感じの正体といったものを見つけようとして文章を書いているわけではないので、ごく単純に、たとえば見田宗介とか高橋源一郎とか、鶴見俊輔といった特権的名前を、短いコラムの文章からふと思い出したりして、そのまますっかり忘れてしまうのだが、ある朝またしても「天声人語」の上にチョコンとのっかっている四角いスペースの中の引用と解説による文章を――考えてみれば、大岡信の「折々のうた」の後に、このスペースが哲学者――「臨床哲学」と呼ばれているらしいが――によって引きつがれて、もう4、5年は経つのではないか――つい、読んでしまうことがある。
 箱の中から透明ファイルにはさんだそれを見つけ出すのに手間取ったものの、赤鉛筆でしるしを付けた新聞紙の切り抜きは、それ程時間もかからず無事に見つかったのだから、それをここに引用したい。
 コラムの書き手の哲学者は、「新型コロナ」が初めて流行りだした年の暮れ近く、新聞紙の上で農業史と食の思想史が専門の学者と語り合い(ʼ20年11月21日朝日新聞)、「コロナ禍の半年を振り返ると、ことばがやせ細ってきた、縮こまってきた」と感じると発言するのだが、しかし、むろん、こうした、時代による言語痩身化説を、東日本大震災の時にも、言葉を発し書く者たちの自粛現象に対する批判的言説であるかのように、たしか新聞の論壇時評をやっていた小説家も唱えていた記憶がある。
 コロナ禍、哲学者は「おずおずと人に触りにくることば、ささやくようなことば、自信なさそうなことば」が「難しくなってい」ると言い、歴史学者はそれを受けて、そう言われてみれば「「出そうで出ない、でもなんとか出してみた」とか、つっかかりながらもはき出してみたということば(いわば内面的で身体性のあるとでもいったところか)を、最近みかけなくなりました」と語るのだが、この時期、「コロナ」について語る様々な「ことば」は、紙面や誌上に当の歴史学者をはじめ(はじめて経験する事態に対する無防備でハイな調子の)あふれていたのではなかったか。言葉は(平仮名で書く「ことば」は、別物なのだろう)痩せ細るのではなく、あふれた言葉につかって水ぶくれし、ブヨブヨと太るのである。たとえば、知識人でもあり半ばは科学ジャーナリストでもあるのだろう科学史家は東京新聞の記者のインタビュー「3・11とコロナ」(ʼ21年3月4日)に答えて、「「メメント・モリ」との言葉を、自分の中にきちんと確立できる機会だと思」うと語るのだが、「自分」というのは学者本人のことではなく、どうやら一般の読者たちのことらしい。今は「もしかしたらコロナにかかって重症化し死ぬかもしれないとの思いを全国民が共通に抱く状態」とも言うのであったが、この説教めいた決まり文句に心うたれる者も、もちろんいたかもしれないとは想像できるものの、私のような読者は、科学史学者が、もう何十年も以前、科学史を学んで学者というか研究者になった教え子の結婚式に招かれてスピーチをする時にいつでも自分が花嫁に向かって語ることについて書いていたことを思い出してしまうのだ。あなたの新婚の夫が日頃、昼日中、ぼうーっとして上の空状態にあっても、心配したり責めたりしないでほしい、彼は学問としての科学研究について思考している最中なのだから、と説く、と書くのであった。私の持った違和感について、わざわざ説明することもあるまい。
 さて、臨床哲学者はコロナ禍の半年で、「ことばがやせ細って」「縮こまってきた」と感じたのだったが、たとえば、様々なパフォーマンスでも知られた『想像ラジオ』(註1)の作者である小説家が、イタリアの小説家が「「SARS-CoV-2は今回の新型ウイルスの名前で、COVID-19は病名、つまり感染症の名前だ」」と「相手を正確に科学的に把握し、名づけること」と書いていることにすっかり感心し、「この時点で著者は「武漢ウイルス」などという曖昧で政治的な名前を使用する者と頭脳が違う」(ʼ20年6月20日朝日新聞書評欄、いとうせいこう『コロナ時代の僕ら』パオロ・ジョルダーノの書評)と書くのだが、ʼ82年生まれの若い作家の「頭脳」をトランプ大統領(当時)と比べるという愚挙は、「ことば」の痩縮の問題に重なるだろうか。詩人でもない者たちが、どこからか降りてきたひらめきを言語化しようとする時、おそらく言葉は痩せ細るのではなく、耳触りが誰にでも心地良くわかりやすい、陳腐な紋切り型となって受け入れられるだろう。「折々のことば」の前の「折々のうた」の書き手であった詩人は、音の響きはもとより、字面の見た目からも「。が、」と続けられる文章を、許せないと書いていたことがあり、この「。が、」は鼻濁音ではなく、印刷された文字で言えばゴチック体で書かれたような、押しつけがましさがあるのはたしかだ。紙上の小さなコラムが字数に吝嗇なのは当然として、「折々のことば」の書き手は、些細な重箱のすみにさえ痕跡の残らない類いの、小さく貧相な「。」と「が、」などより重大な「ことば」があることを信じているのだろう。
 ところで、私は、上野公園(と、普通呼びならわされているように書くメディアもあるが、上野恩賜公園とわざわざ正式名称を使用するメディアもある)にある国立国会図書館国際子ども図書館「「東洋一」の夢 帝国図書館展」で「東洋一の夢」の建築が紹介されたことについて書くつもりだったのだ。その内容も含めてなのだろうが内容ではなく「夢の建築」と称される図書館とは何なのか。およそ子ども図書館というものは公園内に設置されることが多いのだが、公園にはベンチというものがあり、横長のベンチは金属製のパイプ状のものを逆U字型に形成したもので一人が座る面積の三つの部分に分けられている。はじめてこのベンチを見た時、逆U字型のパイプは腕を置くためのものなのかと思ったのだったが、実は公園のベンチで野宿者が横になって寝ることが出来ないように考案されたデザインだったのだ。
 こども本の森中之島(だけではなく、公立や私立の鳴物入りで喧伝された「本」と「作家」を記念する図書館的建造物)は、なにしろ「未来へつなぐ こどもの本の森」であり、ʼ20年の7月、オープンする前に様々なメディアに紹介された何枚かの印象的な写真によれば壁面が本棚になっている階段のそこここに座って本を読んでいる子供たちや階段の下の廊下を走っている子供もいて――いわゆる、やらせの写真であるが――前庭には緑色の巨大なリンゴ――言うまでもなく、“知”の象徴――もあり、どのようなコンセプトで本が置かれているかといえば、選書と配架の構成を手がけたブックディレクターの幅允孝によれば「大階段の裏の屋根裏部屋のような空間は洞窟のような雰囲気なので、恐竜の本を置くといったぐあい」で、どこか「折々のことば」的で、子供の想像力といったものに、たかをくくっているのか追いつけないのか、いずれにせよ、その程度のものである。
 そして、透明ファイルに区分けした切り抜きは、古くても3年前の物なのに、引用する事もないまま、それを読み返してみると何と古びた感じがするものだろうか。五月革命以来ほぼ半世紀ぶりに開催が中止されたカンヌ国際映画祭だが、例年の出品作のように「ノミネート」された『朝が来る』を撮った河瀬直美は「カンヌ国際映画祭は、スポーツで言えばオリンピックみたいなところ」と大衆の一人のように言い、「夢のような場所に(略)俳優やスタッフと共に行きたかった」と発言をしているし、元NHKのキャスターは、新聞のコラムでイタリアのレプブリカ紙の記事を引用する。「西部劇で、開拓者が原住民で包囲される中で第七騎兵隊の到着を待ち焦がれるように、イタリアはいま、ワクチンを待っている」と史実無視のことが書かれるのだが、若い記者にそれを見た記憶がないのかもしれないとは言え、イタリアは少なくともマカロニ・ウェスタンを作っていた国ではないのか。イタリア人でありながら西部劇をつくった監督たちは、ラオール・ウォルシュの『壮烈第七騎兵隊』を見ていたはずである。また、活劇と「家族ロビンソン」的世界をとりちがえたように、小説家は「悪事だの生命の危険だの運命だのを共有している、その仲間は限りなく家族に近づいて行」くと書き、その例としてハワード・ホークスの『ハタリ!』『リオ・ブラボー』をあげるのだが、これ等の文章も「折々のことば」に引用されていたのではないか、と勘違いしてしまいそうだ。(つづく)

註1 この小説のタイトルを思い出したのは、去年の三月、ロシアのウクライナ侵攻について、村上春樹がラジオのディスクジョッキー番組「村上RADIO」で「戦争をやめさせるための音楽」特集を組んだという記事(朝日新聞’22年3月27日)が同じスクラップの箱に入っていたからだ。戦争をやめさせる力など音楽にはないということくらい村上は知っているのだが、聴く者に「戦争をやめさせなくちゃならない」という気持ちを起こさせる力はある、と語り、こうした「ことば」は坂本龍一が言ったとしても何の不思議もない。その「ことば」が朝日の記者の「胸に刺さる」のであった。もちろん記者には想像力のない者には聴こえない「想像ラジオ」の音楽もよく聴こえたはずである。

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