重箱の隅から

 やばい(ヤバイ)という言葉が、その、もともとの意味から逸脱して使用されるようになったのがいつの頃だったかなど、当然覚えていないのだが、このところ目にする機会が増えたように思える「まずい」という言葉はその本来の意味から、「やばい」程には逸脱してはいないように思える。たとえば2月4日東京新聞「文化娯楽」欄の横組のかなり大きなポイントの文字で「変わらなければまずい」というタイトルが置かれ、「映画界のハラスメント問題に取り組む」深田晃司監督へのインタビューをもとにした記事が載っていて、この「まずい」という、言ってみれば下世話な印象のある言葉の使い方に違和感を覚えたのは、これが、何かを変化させなければいけない、という状況の中で使われたことを考えると、いかにも本気度が稀薄な印象を与える言葉だからだろう。
 味の悪さや顔や形の美醜、技術の下手さなどについて使われるだけではなく、具合が悪い、都合が悪い、という意味で使用され、もっぱら、ばれて、、、明かるみに出ると、、、、、、、困ることになる問題を抱えてる者たちが問題にようやく気がついてかなりあわてている様子が「まずい」という言葉には見てとれる。辞書の用例としては「人に見られる(知られる)とまずい」や「聞かれるとまずい」「まずいことになった」が挙げられる。事態に対してこちらの対応の危険さはいくらか近づいているものの、まだ、逃げずに(ヤバイ状況の中には、逃げるという選択が含まれている)、どういうことになったらもっと「まずい」ことになるかを考えて対応しようとする動きが見られるが、「やばい」の方はもう少し単純な事態に遭遇した状況かもしれない。ある食物が「やばい」のはあまりの美味さに食べすぎて胃もフトコロも痛むことを先取りした言い方なのだろう。近頃よく眼にしたり耳にする事件か事故で身体的被害にあった人物に対して「命に別条(テレビでは、別状と書く場合もある)はない」範囲での「やばさ」である。しかし、命に別状(別条)がないとは具体的にどういう状態なのか幅がありすぎるではないか。
「ハラスメント問題を含め業界が抱える課題を解決するためにさまざま取り組んでいる深田晃司監督」に、記者は週刊誌報道をきっかけに、浮き彫りになった性暴力問題を含めて話を聞いて書く。昔からあったハラスメントが「やっと可視化された段階」で「スタートラインに立ったところ」と語る監督は、これまで問題にされることなく当然視されていた問題が映画業界でも「ハラスメントや性暴力に対する社会の認識の高まりや業界の人手不足により、、、、、、、、、、、「変わらなければまずい、、、、、、、、、、」との危機感が醸成されてきた」と語っている。「まずい」も、「やばい」という言い方も、年輩の者が退屈に生活しているとあまり使うことのない言葉で、例外的と言うか職業柄、「まずい」文章(下手という意味での)は、しばしば眼にすることがあるものの、そうした状況、、には行きあたることは、ほぼ、ないように思える。
「まずい」は新聞記事的には、同性婚導入に「慎重な自民党」について立憲民主党代表代行が新聞の取材に「与党内で「(同性婚を認めないのは)ちょっとまずい、、、、、、、」と思う人が1人でも2人でも増えれば、大きな力になる可能性はある」(朝日新聞3月16日)といった文脈で使われるし、「#Me Too」から6年の映画業界について、WOWOWプロデューサーの鷲尾賀代は、ハリウッドが「がらっと変わ」ったと実感し(東京新聞3月2日)、各部署のヘッドがほぼ白人男性だったのが、「「とにかく女性かマイノリティーを紹介して!」「何%雇わないとまずい!、、、、、、、、、、、」と、笑ってしまうくらい急に」変わると語っている。「日本は変わることが不得意」な旧態依然とした男社会だが、「米国では、変えないと後ろ指を、、、、指されてしまうとの、、、、、、、、、危機感、、、」があって「そちらのほうが正しい」と彼女は判断する。
 そして、また、ヘアーウィッグか増毛剤のTVコマーシャルでは、中年の娘が、ある日老年のおしゃれな母親の後頭部の髪の薄さに気づいて「これはまずいよ、、、、」と思うのである。こうした場合、娘の立場の中年女性が「まずい」という言い方をするかどうかはともかくとして、私としては、どこか違和感を持ったのだったが、もしかすると、それはこの言葉が、ある年齢以下のある一つの層で流通している一種の流行的表現かもしれないという気が、まるで根拠はないままにしたからで、「まずい」と言うどことなく自己防衛的なあわてぶりを思いおこさせるこの言葉は、それはたとえば、次のような空想と言うか妄想を呼びおこすのであった。
 もう3年も以前のことだが、都心の一等地、、、南青山に児童相談所が開所するという新聞の記事(’21年3月14日東京新聞)を見た時の印象である。「港区子ども家庭総合支援センター」には虐待を受けた子どもの一時保護所や母子家庭の生活支援施設などが入るのだが、この計画が港区で発表された18年の建設予定地での説明会での、反対する一部住民の不愉快な言い分を当時の記事で読んだし、テレビの情報番組とニュースが混りあったような番組の中で、あきれたセレブ主婦の言い分を揶揄する調子の映像でも見たことがある。「一等地に似合わない」「土地建物の資産価値が下がる」と言うのがその主な反対理由だが、反対する者たちの資本主義的利己主義のうえに、利用者への傲慢な同情を上積せしてこういう土地に貧しい母子家庭用の相談施設を作っても、かえって惨めな思いをさせるだけ、かわいそう、という意見、、さえあったのを覚えている。21年の記事には、「19年の千葉県野田市の小学4年生の女児死亡など、虐待事件が相次いだこともあり、その後は反対意見が減ったという」とあるのだが、「まずい」という言葉を使って何かが変わることについて語られた新聞記事を読んで思い出したのが、この南青山児相が開所するという記事だった。反対意見はなぜ減ったか。反対するのはいかにも「まずい」と思った良心的な人間、、、、、、が、児相の仕組の不備が大きく喧伝された野田市の事件によって、港区に増えた、、、からだろう。「与党内で「(同性婚を認めないのは)ちょっとまずい、、、、、、、」と思う人が1人でも2人でも増えれば、大きな力になる可能性はある」と語る野党の政治家の思考も同じことだ。「まずい」が世界を動かす。
 映画監督の深田晃司はインタビュー記事の最後で「ハラスメント問題に近道はなく、正攻法しかない。私たちスタッフや俳優がしつこく声を上げていくしかない」とはっきり語っているにもかかわらず、記事のタイトルは「変わらなければまずい」という、いわば流行中の「ムード」用語を使われてしまうことになる。
「まずい」のは、言ってみれば社会というか時代の趨勢に取り残されて批難にさらされるということだろう。昭和風の言い方をすれば、「バスに乗り遅れたらまずい」と言うことであり、戦時下的には大政翼賛的行動とも言えるだろうが、それはどうやら日本に特有な事情というわけでもないらしい。「ハリウッド・リポーター」誌の「全世界のエンターテインメント業界で最もパワフルな女性20人」の一人に選された女性の語るところから推測すると、日本と「チェンジの国」アメリカの違いは、どうやら「笑ってしまうくらい急な」変化の速度、、であり、そのスピードが何に由来しているかと言えば「変えないと後ろ指を指されてしまうとの危機感が」あるからなのだ。
 日本でも、とりあえず海外との取り引きが中心的な商事会社などでは、たとえば「女性登用」について意欲的であることを示そうとする。最高総務責任者は「社会にあわせて会社も変わらねば」と語るのだし、イェール大助教授をつとめる経済学者の高齢者集団自決発言が批判的話題になっていた事を無視してウェブ広告に使い、過去にはミャンマーで国軍系企業との合弁ビール会社を運営していたキリンについて、元博報堂社員で作家の本間龍はさすが専門家と言うべきか、キリンの事後対応の非常な素早さ、、、、、、に感心し「人権や差別に関する問題への社会の関心は高まり、なかでも海外の、、、、、、、人は敏感だ、、、、、。キリンのようなグローバル企業は特に活動内容が厳しく問われるようになっている」と語る(東京新聞3月17日「こちら特報部」欄)。
「まずい」という言葉は、食物の味はともかく、文章や顔の美醜をいわば「不適切」な言い方でおとしめた表現を含むだろう。ところで「不適切」という言葉だが、このいつ頃から使われはじめたのか、おそらくはテレビ界の用語として、使われはじめ、差別語、、、という言い方を極めて曖昧に緩和しつつ「おわび」をする場合にいつの間にか登場流通しているこの言葉のニュアンスは、近頃ではテレビドラマのタイトルとしても話題になり、ドラマによって少し様相が変化したらしいが、「まずい」に近いかもしれない。
 私の使っている国語辞典には3冊とも「不適切」という言葉は載っていない。持っている辞書の一番新しいのが1995年版『大辞泉』だから、その頃「不適切」が使われてはいても、辞書的にはまだ採用するのは不適切だったのだろう。しかし、他の2冊の「適切」の用語説明の手短かさ(用例と英訳語を含めて3行、もう1冊は2行)に比べて『大辞泉』は17行を費やしている。この頃から「不適切」という言葉が使われはじめていたからだろうと考えられる。
 たとえば不適当、、、という言葉は普通に通用してはいたものの、適当、、が言ってみればテキトー、、、、とカタカナで表記される類いの軽い使い方から変じて、クレイジー・キャッツと青島幸男によって一つの時代のイメージを形作った、要領の良さ、、、、、いい加減さ、、、、、(この言葉も、良き塩梅を示していたのだったが)を表わす意味を持つことによって、意味がまったく逆の「いい加減ではない」という意味に変化しかねないわけで、そこで選ばれたのが、あまり耳なれない新語の「不適切」だったのだろう。何がどう不適切なのかという説明はされないまま、どうやら、つい見のがしてしまった差別語が番組内で使用されてしまった時、誰かの命に別条はないものの、、、、、、、、、、、テレビのアナウンサーはこの言葉を使用して詫びる、、、と言うか、間違い、、、だった、と告げるのだが不適切な発言がであったかについての説明は一切加えられないのですべては曖昧なまま放送現場のまずい、、、センサーが働いたことのみが見てとれるだけだ。