重箱の隅から

生活困窮者を前に新しい児童図書館は有効か②

 しかし、その前に(忘れてしまう前に……)書いておきたいのは、ロシアのウクライナ侵攻から今日(2月14日)で1年だということを告げる報道を眼にして思い出した、ささやかな言説である。侵攻直後、22年3月21日号の「アエラ」で「停戦の糸口」をさぐるマルクス経済学者と元国連PKOのメンバーとして各地の戦後武装解除に携わり、現在は大学教師の対談は、内容を見開き二ページに三枚のウクライナの戦場の写真を添えてまとめた構成者によれば「歴史的背景まで探りながら多岐に及んだ」らしいのだが、マルクス経済学者は、この攻撃が親ロシア派が支配する「ドネツク、ルガンスク両地域の独立を条件とした限定的な戦い」と見ていたのだが、むろん、こうした見方は誤ちだったわけだが、戦争は終っていない。しかし、それは、ひとまずどうでもいい。経済学者は、ロシアの条件闘争的戦いぶりに対して、「ゼレンスキーのほうはショーをやってしまっている」と言い、それが誤った見方だとは思わないが、しかし「ぼろぼろの、、、、、服を着て、、、、、追い込まれて大変だという雰囲気を醸し出しながら」(傍点は引用者)民衆には、「武器を取って戦え」と言っているというのは、どうだろうか。ニュースを見ている限り、ロシアとウクライナ双方が国家の正規軍ではない軍事集団である傭兵や民兵を使っていることは、ほんのわずか触れられるだけで、もっぱら被害をセンチメンタルな悲劇的調子で伝えるだけの戦争報道が中心で、激戦地のマリウポリを防衛した「アゾフ連隊」についての説明などは無いのも同然で、戦争や国際的知識に乏しい高齢の女性純文学作家としては、西谷修の論考(「世界」22年5月号「新たな「正義の戦争」のリアリティーショー」)を読むまで、ほぼ何も知らなかったのだった。ウクライナの激戦地マリウポリで戦っているアゾフ大隊、、、、、(ママ)の存在は、それがどういう軍隊であるのかの説明もないまま、暴虐な独裁者であるプーチンにネオナチ呼ばわりされながら祖国のために踏みとどまって闘う勇気に充ちた愛国者といった趣きで語られたのだったが、おそらくはロシアによるクリミア統治のことなど、覚えているにしても、ぼんやりしたものにすぎないはずの多くの日本人にとって、アゾフ大隊という言葉は初耳にも等しかったろう。
 西谷修は22年ロシア侵攻三週間後、マリウポリでの激戦について、次のように語る。「なぜ、ここが激戦地になるのかは偶然ではない。マイダン革命(2014年)で状況激化に貢献し、その後政権に表彰され国軍に格上げされた「アゾフ大隊」――反共・反ロのウルトラナショナリスト民兵集団で、日本の公安調査庁でもネオナチと認定している――が、対「親ロ派」対策でこの町を拠点化していた。」
 私たちはむろんそうした事実を知っておく必要があるのだが、ここで問題なのは、それはそれとして、「糾弾だけでは停戦は実現せず」という、「旧ソ連圏の歴史に詳しい専門家と紛争解決のプロが意見を交わした」という極めて当然なタイトルを持つ週刊誌の記事中、経済学者の、ゼレンスキーが「ショー」の演出上「ぼろぼろの服を着て、追い込まれて大変だという雰囲気を醸し出し」ているという発言である。侵攻以来の一年間、私たちはメディアを通して連日、ゼレンスキーのむさくるしい程ではなく過度に伸した無精ヒゲの憂いと怒りの小太りの顔を見ない日はなかったし、それ以前はどういう服装をしていたのか思い出せもしないものの、軍のイメージのカーキ色系で布地がへたって、、、、いない、いつもおろしたて、、、、、といった感じの、ヨレヨレでさえなく、ましてボロボロなどとはとても見えない清潔な、、、Tシャツやジャンパーを着ているという印象である。
 むろんそんなことは、いわゆる物の喩え、、、、であって、どうということでもないし、マルクス経済学者としては、戦下いちはやく生活が困窮状態にあることをゼレンスキーが「ぼろぼろの服」によってテレビのコメディアンらしくフェイクっぽく演出した、と言いたかったのかもしれないが、この場合、ゼレンスキーが選んだ衣装、、は「ボロ」ではなく、まして、戦闘を暗示する迷彩色のTシャツやジャンパーではなく、前世紀から今世紀を通じ、いつも流行っていて、時にはハイ・ファッションに取り入れられるミリタリー・ルックのカーキである。しかし、これは、そうした意味の社会学的問題などではなく、ゼレンスキーの、汗ばんで脇の下に汗染みぐらいは出来ていたかもしれない、兵士の下着のようなTシャツは、「ぼろぼろ」には、決して見えないということなのだ。そうは見えない物を、一定の、困窮なら困窮というイメージを形づくりはするものの、決して真実ではない表現をしてしまうのである。
 たとえば、ここ数年以前から公立の施設や私立の公共的図書館の新しい建築が話題になっているのは、背景に公立図書館の多くの建物が建て替え時期にあたっていたことと、オリンピック事業の影響によるスター建築家のメディアへの露出度にもよるだろう。
 本来なら、ザハ・ハディドの超現代的なデザインによる新国立競技場の話題性が沈む街的様相を呈していた東京を再活性化するかもしれなかったのに、なにしろ小判型曲げわっぱのお弁当箱(松花堂弁当でさえない)のような質素な建造物が、いわば「負の建築」として樹や木造をイメージして作られてしまったにしても、メディア的事象として建築家は日本を代表する現代建築家として頻繁に登場するし、これまでの「東京」の都市像に否定的であったこととは関係なく、むろん都市開発にもかかわらざるを得ないし、そもそもオリンピックというものは、都市の再開発を進める資本主義の国家事業でなくて何なのか。
 2020年の1月23日の朝日新聞「けいざい+」の記事は、新国立競技場の建設を請け負った「大成建設の川野久雄(55)」の、建築理念、、、、を紹介している。北京では原広司と組んで主会場案を作ったものの負けた、、、ので、今度は「日本的」と目される物を意識して「自然や人への優しさを打ち出した施設」を考えたことが「新国立の思想」として語られている。そういう「人々」が実在するのかどうかは知らないが、記事の中で川野の「思想」は次のようにまとめられる。「人々が国立に憧れ、聖地と意識してきたのは、近くに明治神宮の杜があるから。100年後を見据え、意識を継承したい」。都心にあっても「自然と伝統、、、、、を感じさせる特別な環境にふさわしい競技場」とはどのようなものかを「隈研吾らと「杜のスタジアム」というコンセプトを掲げ、案を練った」と語る。東京都は新国立競技場建設のために、神宮外苑地区に適用されていた高さの建築制限を緩和し、22年には「用途」の制限も緩和したのだから、建設関係者が大規模な国家的プロジェクトのコンセプトを説明する言葉も、土地に対する「聖地」意識というか空間意識はもとより歴史意識も、もちろん信用できるというものではあるまい。メディア上では隈研吾中心の計画のように伝えられた新国立競技場なのだが、川野のインタビューでは、大成建設のプロジェクトだったようだ。国立近代美術館での「隈研吾展 新しい公共性をつくるためのネコの5原則」(’21年6月~9月)について、朝日新聞記者によるインタビューの中で、丹下健三的な神の視点、、、、ではなく「帰る場所がありながら自由に動き回る半ノラのネコ」の視点で都市的空間(いずれにせよ、建築物で埋め尽くされることだろうが)を考えると語り、記者の、もはや国民的建築家なのでは? という問いに、「いやいやそれはね。ほっとできる木などの素材を使って、建築と国民の距離を縮めることはできたような気がしています」と、ひとまず謙遜して答えるのだが、大成建設の川野久雄が、「「杜のスタジアム」の聖なるコンセプト」について語っている同じ日の紙面(読者投稿「声」)には、サッカー天皇杯決勝戦で初めて新国立競技場に行った65歳男性会社役員の投書が載っている。「新国立競技場についての報道は、あまりに提灯記事が多すぎる」と極めて妥当な意見を述べ、さらに「外観を大事にし過ぎ、観戦者を忘れているとしか思えない造り」の最たる例として「ひじ掛けもなく、隣と常に体が密着する状態」で「しかも前とのスペースもなく、トイレに行くときは同列全員に起立を促さざるを得ない」といった欠点を挙げている。
 都市の空間を太陽の反射光でまぶしく輝かせる鉄とガラスではなく、木の建築にこだわり、コロナ後の都市像を思い描く隈研吾なのだが、あの東日本大震災を東京で経験した私たちとしては、首都高速を走る車の中からでも、東京都心のガラスと鉄のビル群の下を歩きながらでも、ふと、このスクラップ・アンド・ビルドのアルファヴィル、、、、、、、が大地震で瓦礫になる姿を幻視している気分になるのだ。
 建てるために壊されるコンクリートと鉄でできた建物に私たちは囲まれて生活していて、大音響を立てて破壊された建造物(デザイナーズ・マンションと称された有名建築家による贅沢に無駄な空間がエントランス部にあったりするモダンなコンクリートの)のあった土地には、建設現場で働く地方出身の労働者(コンビニでやや年輩のベテラン店員が、そうした労働者の一人がカウンターに置き忘れた物があることを知らせようとして、ドアに向かって歩いている男に、おじさん、おじさーん、と大声で呼びかけ、商品を入れ替えていた南アジア出身の留学生のアルバイトの少女が、やだ、お客さんに、おじさんだって、と、あきれはてたように呟くのだが、後で知ったところでは、建設労働者は親類のおじさんなのだ)が、騒音に文句をつけている、コロナ下、在宅勤務中の近隣女性に、言ってみればコンクリの長屋だよね、今まで建ってたのとは違って、と答えるので、在宅勤務の女性は、そういう物が建ったら地価が下がる、マンションをAVの撮影の貸しスタジオに使っていた事務所が、やっと出ていったとおもったら、と憤然とするのだったが、土地や家屋を私有していない者にとって身近な建築的事象と言えば、建物を壊すことと整地した土地を掘り返して鉄筋を打ち込む騒音と埃、瓦礫や生コンクリートを運ぶ何台ものトラックの絶え間ない行き来、といったものにすぎないのだ。(つづく)

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