重箱の隅から

耳はいつ痛くなるのか、あるいは馬鹿という言い方②

 響きは、詩的な言語としても悪くないし、使い勝手もいいのに、直截的すぎて(どんなバカにでもわかるとでもいった類いの)使うことがほぼ禁止されているらしいこの言葉は、たとえば、それに壁というある意味重厚なイメージのある言葉を付せば、ほどほどに知的な、、、ベストセラー本のタイトルの一部に使われることもあったのだが、この言葉の使われ方と俳句雑誌との関係について触れた前回の記事の後、11月25日付け朝日新聞に続報が載っていた。
「25日発売の12月号」の雑誌「俳句」に謝罪文が載り、編集長は高橋睦郎の文章について「故・黒田杏子氏の人格・品位への疑念を読者に抱かせかねない部分があるにもかかわらず掲載」し、関係者に「大変不快な思いをさせてしまった」と書き、高橋睦郎も「ひとえに私一身の配慮不足」と謝罪しているという記事である。編集長は書き直しを依頼したが拒まれ、そのまま掲載すると決めたという。
 この記事に書かれていることは何を意味するのか。
 真意はともかく、共に故人のある人物(女性)がある人物(女性)を評した、ざっくばらんな、いわば私的な表現の中で使われた言葉が、ある人物によって雑誌に引用され、その言葉を使ったとされる故人の「名誉」が傷つけられたとして「遺族や俳人ら」が掲載誌に対して抗議したということなのだが、「名誉」というのは別の言葉で言えば、故人は「人格・品位への疑念を抱かせかねない」言葉づかいをしたりしない、ということでもあるらしいと推測できる。
 名目だけという意味の名誉も含めて、ほとんどの人間には、ほぼ何の関係もないこの語彙と書きかけて、名誉毀損という法的概念があることを思い出した。三島由紀夫の『宴のあと』(’60年)のモデルとみなされた有田八郎がプライヴァシー侵害として訴訟を起こしたのは、大岡昇平が書いていたのだが(今は、その文章を見つけて調べている時間がない)、最初に考えた名誉毀損では、何しろ小説に書かれたことが事実は事実なので、この罪状で勝つのは無理だから、「プライヴァシー」という、日本ではまだなじみの薄かった概念を導入して訴訟したのだそうである。
 ある言葉(個人に対するいわば攻撃的な罵りとも見える)が、発せられた対象の名誉を傷つけるということがあることはありそうだ。しかし、その言葉を発したとされる人物の「人格」や「品位」への「疑念を抱かせかねない」ということになると、そもそもが大したことではないような気がするものの、様々な考え方が、罵倒語、、、と目される言葉に関して存在するらしいことに気付かされる。
 そこで、私としては、ほぼ60年以上昔の子供の作文や読書感想文の常套句、もし私が◯◯(たいていが主人公に自分をなぞらえる)だったら、と始まる考え方を採用して、この件に登場する4者だったらと考えてみる。俳人A(黒田杏子)、俳人Aの遺族と俳人グループB、追悼特集の組まれた女性俳人C、Aの発言として批難の言葉を引用したD(高橋睦郎)とする。
 Dによって引用されたAの発言については、会いに行かなくてもいいとは言わないだろうが、「馬鹿女」という(あるいは、それ的、、、な)言い方はする。日常的に、いつも文章を書く時のように凝って気の利いた言葉づかいをしていると疲れるので、簡易的ではあるが、ある程度強い言い方を使用したい場合に、馬鹿、、およびバカも便利である。Bについては、遺族であれ、俳人Aを高く評価する立場の俳人たちの1人であったとしても、私ならば、DにもDの文章を掲載した雑誌にも抗議しない。読者に故人の「人格・品位への疑念」を抱かせかねないタイプの言葉など、決して発しない人であるならば、考え方も変わるかもしれないが、ここでは「もし私だったら」と考えているのだから、遺族としても俳人としても「故人はそういう失礼なこと、よく申しておりました」と答える他ない。むろん、俳人の大石悦子氏とはなんの関係もない、私の内省的感想である。
 さて、「馬鹿女」と罵られたCの立場であったとすれば、この場合故人なのだし、そう発言した俳人Aも故人なのだから、これはもう、どんな立場であれ黙殺である。生きていたとしても、馬鹿女と言われたことなどは、同じく黙殺である。相手にしない。
 最後がDなのだが、これはもし私なら、、、、、と考えるのではなく、高橋氏の「ひとえに私一身の配慮不足」という謝罪の言葉を受け入れる以外ないだろう。この程度の面倒は避けてもいいのだ。
 短歌と俳句の区別はつくという程度の読者と言っても大してオーヴァーではない私なので、当然、ここに登場する3人の俳人の句を読んだこともないのだが、短い2つの新聞記事(2つ目は、このささやかな抗議事件の、ささやかな解決法を伝える)を読んで思ったのは、たとえば誰かのことについて同じ言葉を私が誰かに言ったことがあり、それを耳にした誰かが書いたとしても、誰も(私の場合、遺族は姉が1人)別に何も言わないだろうし、誰も品位とか人格という言葉を出して心配したりはしないだろう。
 それにこの2つの新聞記事を読むかぎり(当然のことだが、私は角川文化振興財団の発行する月刊誌「俳句」を見たことがなく、この件について読むべく雑誌を買ってもいない)、馬鹿女と名指されて傷ついたかもしれない俳人の名誉のことは問題にされていない。この言葉は、言われた方より、言った者の方が品位や人格の問題を疑われる言葉らしいのである。
 そして、私はそのどちらにも問題ありと疑われても別にかまいはしないのだが、12月20日の朝刊を読んで、まだはっきりしていない起きぬけの頭のまま馬鹿じゃないの、と思わず声をあげたのが、4人の選考委員の第50回大佛次郎賞の選考委員の言葉の中の1つであった。今回の受賞作は『小津安二郎』(平山周吉)で、この受賞作についての評価は、とりあえずこの際どうでもいいこととしておこう。私がある種の言葉を含む声をあげたのは、選考委員の1人の小津映画の見方についてだ。もう1人の別の選考委員の、小津映画=「旧き良き日本的家族が変容していく時代と重なっている」という紋切型とは、それでも少しだけは違う発言をするらしい委員は、平山周吉(「雑文家、、、」と何やら意味あり気に自称する、、、、)の著作について、「小津映画のファン」として「彼の戦前」と「戦後」の映画は「何か違」い「戦後作品には深遠があり、非凡だが、戦前はどこか浅く、凡庸だ。それが一体、具体的に何なのか分からなかったのだ」が平山の著作によって「得心がいった」というのである。こちらにとっては、得心がいったのはどうでもいいことで、小津の戦前の作品が「どこか浅く、凡庸」と言うのは、いったい、何を根拠にしての発言なのか、と思わず発したのが、馬鹿という言葉を含んだものだったが、むろん、この言葉は後で修正されることになる。
 と、ここまで書いたところで、とどいた郵便物の中に「ちくま」1月号があって、蓮實重彥の連載「些事にこだわり」17回「久方ぶりに烈火のごとく怒ったのだが、その憤怒が快いあれこれのことを思い出させてくれたので、怒ることも無駄ではないと思い知った最近の体験について」を読む。
「間違っても、日本を代表する世界的な映画作家、、、、、、、、、、、、、、、などではない」し、「そんなことは、黒澤明にでも任せておけばよろしい」と書く蓮實重彥は、小津の生誕120周年を記念して行われた行事の1つである、東京国際映画祭のシンポジウムの企画に対する激しい腹立ちを語っているのだが、私が大佛次郎賞の選考委員の言葉に対して感じたむかつき、、、、は、WOWOWで放送された小津生誕120周年ということで、無知な者たちが集って唯々闇雲に作られたとしか見えない小津のサイレント作品をリメイクしたドラマを見たことで思い出してしまったことでもある。
 リメイクという言葉と黒澤明という日本を代表する映画監督の名が出たからには思い出すのは、世界的名画と言われる『生きる』をカズオ・イシグロ(H・ホークスの映画の、洗練され尽くした映画的軽薄さとでも言うものに、どうしてもなじめないらしい映画ファンの、、、、、、)が脚本を書いたイギリス映画だが、WOWOWの企画者には、イシグロとクロサワの世界的日本人同士の結びつきが、さぞやまぶしく感じられていたことだろう。
 資料を調べてみる気にもなれない、リメイクのテレビ・ドラマと同じ放送枠で、小津のサイレント作品(『淑女と髯』『東京の女』『青春の夢いまいづこ』『生れてはみたけれど』)も放送していたのだが、当然見比べる必要もなく、「浅く、凡庸」以下なのだが、しかし、と、あり得ないことをふと考えてしまう、大佛賞選考委員は、小津の戦前・戦後を問わない作品(とどいたばかりの雑誌から、怒りが加わって輝く文章を引用すれば、あらゆるものを超えて「宇宙と無媒介的に触れあってしまった例外的な映画作家」の撮った)の「戦前」のものを見てはいなくて、120周年記念のWOWOWドラマを、なぜか放送される以前に見る機会に恵まれ、戦後作品の「深遠」「非凡」さに比べて「浅く、凡庸」という感想を持ったのかもしれないと思ってしまうのだが、しかし、あのリメイク・ドラマは、小津の映画を見ることなどなかった者たちが、拙い書き方のあらすじを読んだだけで、何を畏れることもない鈍重な無知さで作ったものに違いない。
 ところで、修正しようと思ったのは、馬鹿という言葉は軽いものだからである。もう少し重い言葉で罵りたいものがあるではないか。関西では阿呆に比べてこの言葉が重く響くと聞いたことがあるが、それはともかく、役者馬鹿といった使い方があるように、芸熱心さがバカに見える程特異な芸人といったある特別な才能を称揚する業界内自己愛的言葉でもあることを思い出したからだ。
 しかし、それにしても「馬鹿女」という言い方は、数名の人々が連名で抗議をするという、それ程までに、発した者の品位や人格に傷をつけるものなのか。(つづく)

 

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