私たちの生存戦略

第三回 家族=呪いの輪

日本アニメ界の鬼才・幾原邦彦。代表作『輪るピングドラム』10周年記念プロジェクトである、映画『RE:cycle of the PENGUINDRUM』前・後編の公開をうけて、気鋭の文筆家が幾原監督の他作品にもふれつつ、『輪るピングドラム』その可能性の中心を読み解きます。

多蕗桂樹と母の問題
時籠ゆりと同様の問題を抱える人物――多蕗桂樹とはそれである。
彼には音楽の才能だけを愛する母親がいた(第十八話)。
才能のない父親と母は離婚しており、彼に残されたのは母だけであった。だから母に愛されるために、彼はピアノの練習に努めていたのだ。
けれども母親が再婚し、弟が出来て、ある時彼は気がついてしまう。
弟が天才であることに。自分よりもずっと、音楽の才能に秀でていて、いずれ弟に母の愛を全て奪われてしまうだろうことに。
母の愛を失う恐怖から、彼はピアノを弾く自分の手を自ら傷つけ、二度とピアノを弾けない体になってしまう。そのことによって、彼は恐怖を終わらせたかったのだ。
いつか失うことに怯えるよりも、今自ら全てを終わらせてしまいたかった。母に同情され、憐れまれることを期待してもいたのだ。
だが期待は裏切られる。傷ついた彼を母は省みない。彼は絶望する。
そして絶望した彼を救った人物とは、もちろん荻野目桃果であった。
母に省みられなくなった彼に向かって、桃果は「あなたを必要としている」と言う。
彼が放課後に弾いていたピアノの音色を聴いていたと。もう弾けなくなっていたとしてもそんなことは関係ない、なぜなら自分が聴いたのはあなたの心だからだと。
桃果はゆりの時と同様、その人の中のトラウマに寄り添い、それを別の形で掬い上げるような仕方で話している。
音楽の才能なんてなくたって構わない、と言うのみでは効果がない。呪いはそんなに容易には解けない。だから桃果は「ピアノを聴いた」ことをまず伝えるのだ。その上で、ピアノそのものではなくて母の愛を求める心こそを聴いて欲しかった多蕗に寄り添っていた。
桃果は彼を救ってくれた――けれども、あの事件によって、彼女は失われてしまった。
救い主である桃果を失った多蕗は、ゆりと同様、もはや神のいない世界を十全に生き抜くことが出来ない。彼にとって桃果のいない今の世界は、「半分死んでいて、半分生きている」シュレーディンガーの猫のように見えるものである(第六話)。
事件の加害者への復讐心を捨てきれず、直接的加害者ではない高倉陽毬や高倉冠葉を復讐のために苦しめる時、彼がそこに見るのは桃果の姿である。
陽毬を救う冠葉の姿が、過去に自分を救った桃果の姿に重なった時、彼は自らを苦しめた当の母親と自分の類似性を自覚する。そして言うのだ。「あの時、桃香があんなにまでして助けてくれたのに、僕はすっかりダメになってしまったよ。桃香を失って生きる目的も失った。今ここにあるのは僕を内側から喰らい尽くした一個のモンスターだ」と(第十八話)。
桃果=救い主の登場に救われたにもかかわらず、救い主を失って再び呪いの輪に引き戻されてしまう――自分を苦しめた、憎んでやまない当のものと似てしまう――それが時籠ゆりと多蕗桂樹を通して描かれる問題である。呪いの輪の問題である。
容易には抜け出し得ない、終わらない、続いていく現実そのものである。