昨日、なに読んだ?

File90.緑の風景のなかで読む赤い本
西脇順三郎『Ambarvalia』、志村ふくみ『白のままでは生きられない 志村ふくみの言葉』

紙の単行本、文庫本、デジタルのスマホやタブレット、電子ブックリーダー…かたちは変われど、ひとはいつだって本を読む。気になるあのひとはどんな本を読んでいる? 各界で活躍されている方たちが読みたてホヤホヤをそっと教えてくれるリレー書評。今回のゲストは詩人のカニエ・ナハさんです。

このページの上部に掲げられている写真は緑がかっていて、どこかの公園だろうか、たぶん公園だとおもう、やや傾斜がありやや斑である芝生の斜面に置かれているベンチの、ベンチというものの横顔をこうやってあらためてしげしげ眺めていると蔦のような音楽の記号のような曲線の文様が、向こうに見える木々の枝々の描く曲線と響き合っていてこんなふうにしてさりげなく公園の音楽を交響させている、その向かって左手の中空に「昨日、なに読んだ?」という文字列をはらんで浮かんでいる吹き出しは、このベンチからの問いなのか、そのうしろの木からの問いなのか、あるいはそれらの間の中空からの問いなのか、わたしとしてはベンチからの問いである説が有力なのだけど、きっとこのベンチに腰かけると、どこからともなく公園の交響曲がフェイドインで流れてきて、じきに「昨日、なに読んだ?」の声が聞こえてくる、これはそういう類いのベンチで、ベンチがなぜわれわれにそのような問いを投げてくるのかわからないけれど、あるいはただの退屈しのぎなのかもしれないし、あるいはベンチというものは本来休息ではなくて問いをそこに腰かけるものにもたらせるための存在であるのかもしれないし、ともあれ、あらゆるベンチはそうやって「昨日、なに読んだ?」とか「明日、どこ行くの?」とか「今日、どんな夢みた?」とかなんとか、去来するひとびとに飽かずたゆまず今日も、たった今も問うている、問いつづけているのかもしれない、などとかんがえながら明日こそ休みをとってこの写真の緑がかった風景のなかのベンチへと出かけよう、本をたずさえて、「昨日、なに読んだ?」とベンチに問われたときに「昨日この本を読んだんだ!」とベンチに見せるための本を、などとかんがえているわたしはもはや昨日読んだ本ではなく明日ベンチに見せるための本をかんがえているわけだけれど、ベンチに紹介する、あるいはベンチに読み聞かせるための本だとしたら何がよいだろうとかんがえたときに、たとえば『ゴドーを待ちながら』なんてのはあまりにもベタだし、きっとベンチも既にそれをだれかに読み聞かされているだろうし(あるいはうんざりするほどにくりかえして)、そういえばそのタイトルをもとにしたとおぼしい、東京国立近代美術館の2009年の企画展『ヴィデオを待ちながら』の図録はこの十数年間折にふれて見返してきた長年愛読している図録だけれど、このなかにフランシス・アリスによる坂道を赤い車がダンス音楽のリハーサル音源と同期するようにして前進したり後進したりをえんえんくりかえす映像作品の図版があって、映像のなかに映える赤い車といえば最近だとやはり映画『ドライブ・マイ・カー』、すこし前だと映画『ディア・ドクター』で鶴瓶さん演じる偽医者を乗せた赤い車などがぱっと思い浮かぶけれど、後者では田園風景の緑のなかを赤い車が走っていくロングショットが鮮明で、それら赤い車たちの映像たちを思い出しているうちにふと、この緑がかった公園のベンチに座って明日読む「昨日読んだ本」は、やはり表紙が赤くなくてはならないという気がしてきて、それで明日あの緑がかった公園のベンチで読むための赤い表紙の本をピックアップするべく家の本棚をざっと見わたして赤い背表紙のものをあまねく取り出してそのなかから選ぶ、とりわけ赤いやつを二冊。

西脇順三郎の詩集『Ambarvalia』(椎の木社/復刻版・日本近代文学館)は田村隆一が「ぼくの心どころか手までワインレッドの色に染ってくるのだった」(「ワインレッドの夏至」)と詩に記した、あまりにも赤い表紙でそのなかみは古代ギリシアや古代ローマのいにしえの詩人たちの詩の翻案があれば、かつて自らが外国語で書いた詩を自らで日本語に翻訳した詩があり複数の時空間が層をなすまさに熟成した赤ワインにも似ていて刊行から長い年月を経てその味わいはさらに深くなっていて、ついつい飲みすぎて酔っ払ってしまったのか、「帽子を浅くかむつて/拉典人類の道路を歩く/樹木の葉の下と樹木の葉の上を」で始まる「風のバラ」という詩篇など読んでふと目をあげると、いま目の前を通りすぎていったひとを古代ローマのひとと錯覚したりして、ここがどこでいまがいつだか分からなくなる。

『白のままでは生きられない 志村ふくみの言葉』(求龍堂)は2016年の世田谷美術館での志村ふくみ展を見たとき帰りに売店で買った本で通常の表紙カバーの上に5mmほど丈の短い、ほぼもう一枚のカバーといってよさそうな帯が巻かれていてここに真赤に染織された布地の肌理があしらわれている、じきに百歳になる染色作家がつむぐ色にまつわる言葉で編まれたアフォリズム集であり、優れたアフォリズムが往々にしてそうであるようにそこに幽かに確かに詩情が織り込まれていてその繊細な肌理を目で、のみでは飽き足らず指先で確かめるように、ときにその文字列にじっさい指を触れさえしながら味わうといった読み方へといざなわれて、たとえばこんな一行に触れて、「緑はその両界に、生と死のあわいに明滅する色である。」それで、そうか、この緑がかった風景のなかのベンチもまた生と死とのあわいの空間で、「昨日」という時間はその両界のはざまにある緑がかった時間で、本を読むということ、読んだ本について語るということもまた両界のあわいにて明滅する緑がかった行いなのだということが、分かった。

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