こんな短歌がある。
バラバラになってもバナナはバナナなのにテープで房を固定する父 戸田響子
友だちの家に行って、「テープで房を固定」された「バナナ」を見つけたら、ちょっと怖いだろうな、と思う。「あれ、なに?」と尋ねるのが躊躇われる。
「バナナ」という果物のアイデンティティとはなんだろう。完熟度か、糖度か、色か、サイズか、産地か。いや、作中の「父」の考えは、その中のどれでもない。答えは「房」であること。青くても小さくてもいい、でも、「バラバラ」になった「バナナ」はもはや「バナナ」ではない。彼はそう信じているのだ。
直観的に思うのは、この人は説得できそうもない、ということだ。普通の理屈は通用しない。そういうオーラをむんむん放っている。
もしも、この歌が次のようだったら、どうだろう。
バラバラになっても家族は家族なのに独り暮らしを許さない父 改悪例
この「父」は普通にいそうだ。つまり、短歌としては面白くない。思い込みが謎であればあるほど、その世界は危険なオーラを放つ。たぶん、「バナナ」の「父」は、娘の「独り暮らし」には寛容だったりするんじゃないか。
先日、将棋の加藤一二三九段について検索していたら、こんな言葉が出てきた。
「人から見て長く見えるのはわかっています。でも自分ではまだ短いように思うのです」
自身のネクタイについての加藤九段の発言である。彼は対局時に締めるネクタイが異様に長いことで知られているらしい。画像を確認すると、確かに長い。畳についている。男性の服装の中でも、ネクタイの位置づけは特別というか、社会性の象徴のようなアイテムだろう。つまり、他人からどう見えるか、が重要なのだ。
だが、本人曰く「人から見て長く見えるのはわかっています」。にも拘わらず、「でも自分ではまだ短いように思うのです」。ここが凄い、と思う。
髪を伸ばすとか、髭を伸ばすことが、一種の反社会性の象徴になるのはわかる。しかし、社会性の象徴たるネクタイをちゃんと締めていながら、それをどんどん長くしてしまうというのは、どういうことだろう。どれだけ伸ばしたら、OKと思えるのか。どこから指令を受けているのか。
謎の思い込みに憧れる。それはその人だけの、唯一無二の魂の存在を感じさせる。でも、「バナナ」や「ネクタイ」ならいいけど、方向性によっては危険だ。本人を破滅させる可能性がある。そもそも思い込もうとして思い込めるものではないけれど。
(ほむら・ひろし 歌人)