「たべるのがおそい」という雑誌を読んでいたら、「日本のランチあるいは田舎の魔女」(西崎憲)という小説が載っていた。お、やってるな、と思った。何をやってるかというと、「あるいは」である。私が初めて出会った「あるいは」は何だったろう。
「ソドム百二十日あるいは淫蕩学校」「ジュスティーヌあるいは美徳の不幸」「ジュリエット物語あるいは悪徳の栄え」といったマルキ・ド・サドの作品群だろうか。いや、私が手にした文庫本では、単に「ソドム百二十日」「美徳の不幸」「悪徳の栄え」となっていたような気がするんだけど、ちがったかなあ。どうも記憶が曖昧だ。サドの世界は子供の私にとってはハードルが高すぎて、「あるいは」の印象が薄かったのかもしれない。
はっきりと意識したのは、「チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷」(塩野七生)だと思う。そのタイトルを見た瞬間、おーっ、と思った。かっこいい、なんか知らんが、かっこいい。そして、何度か口ずさんでみた結果、かっこよさの核にあるのは「チェーザレ・ボルジア」でも「優雅なる冷酷」でもなく、「あるいは」であることに気がついた。いいなあ、「あるいは」。
そんな風に一度意識すると、自然に目に留まるようになる。それから、「あるいは」と出会うたびに、おっ、と思うようになった。「ヘリオガバルスあるいは戴冠せるアナーキスト」(アントナン・アルトー)、「批評あるいは仮死の祭典」(蓮實重_e)、「三島由紀夫あるいは空虚のヴィジョン」(ユルスナール)、「ダーシェンカあるいは子犬の生活」(カレル・チャペック)、うーん、どれもいい。僕も一度はやってみたいなあ。そう思いつつ、でも、ラインナップを見て怯む。どうも「あるいは」をやるには、それなりの格調というか迫力というか、資格がいるみたいなのだ。
その後も、「あるいは」との出会いは続いた。「抱擁、あるいはライスには塩を」(江國香織)には痺れた。「あるいは」の前後に詩的な飛躍があってかっこいい。「絵画は二度死ぬ、あるいは死なない」(林道郎)は、どっちなの? と思って一瞬混乱するところがよかった。絵画は一度つまり普通に死ぬことはないって意味だろうか。また、「モンキー・ワイフ――或いはチンパンジーとの結婚」(ジョン・コリア)は、まったく「或いは」って気がしないのが面白い。
「あるいは」について同じ憧れを抱く友人と盛り上がったことがある。
「あれ、かっこいいよね」
「うん」
「いつかは……」
「やってみたいね」
「チェーザレ・ボルジア!」
「あるいは優雅なる冷酷!」
「ヘリオガバルス!」
「あるいは戴冠せるアナーキスト!」
「あるいは」ごっこの宴は続いた。などと云いつつ、実は一度だけ我慢できずにこっそりやってみたことがあるのだ。書名につける勇気はなかったから、ばれないように(?)ささやかな短文につけてみた。その名も「生ハムメロン、或いは極彩色の旅」、恥ずかしい、でも、かっこいい!
PR誌「ちくま」1月号