絶叫委員会

【第112回】線路内に人

PR誌「ちくま」2月号より穂村弘さんの連載を掲載します。

 先日、電車に乗った時のこと。車内にこんなアナウンスが流れた。

「青梅線朝のラッシュ時間帯、鹿との、失礼いたしました、猪との衝突事故がありました関係で遅れが生じております」

 へえ、と思った。そんなところでも動物との衝突事故なんてあるんだなあ。そして、「鹿との、失礼いたしました、猪との」という云い直しがなんだか面白かった。「鹿」でも「猪」でも乗客にはわからないのにわざわざ云い直したっていうことは本当に本当なんだろう、という奇妙な感覚。
 次のアナウンスはよく耳にする。

「先ほど●●駅で線路内に人が立ち入りました関係で遅れが生じております」

 そのたびに怪訝な気持ちになる。人身事故なら「●●駅で人身事故がありました関係で」という云い方になるから、それ以外のケースということになる。しかし、「線路内に人」って、そんなに頻繁に立ち入るものだろうか。と思っていたら、あれは別の事象を云い換えたものだという説があることを知った。別のって具体的には何だろう。「お客様同士のトラブル」や「お客様の救護」はそのままアナウンスされるから、駅員と乗客のトラブルとか痴漢トラブルとか? でも、どうしてそれをわざわざ云い換えないといけないんだろう。考えると不安になる。
 デパートなどの「先ほど●●売り場で●●をお買い上げになった●●様、至急売り場係員まで御連絡ください」についても、実は店員の呼び出しだという説を聞いた。買い物をしただけで名前がわかるのはおかしいというのがその根拠らしい。でも、どうして普通に呼び出さないんだろう。また、携帯電話が普及した現在ではこのアナウンスはなくなったのか。どうもよくわからない。
 自分を取り巻く大小のシステムが、目に見えないままにどんどん高度化していることへの不安感がある。インターネット上では、情報弱者はひっこんでろ的な云い方もされる。自分は情報弱者に違いない。野菜などの横に生産者の●●さんの写真が置かれたりするのは、そう感じる人々の不安を少しでも解消しようとする意識の表れだろう。でも、問題を根本的に解決することは難しい。
 日々の暮らしの中で、どんどん不安は膨らんでゆく。その結果、さまざまな陰謀説に辿り着く。前述のアナウンスの他にも、よく聞くのは、虫歯や近視は歯を削ったりレーシック手術をしなくても実は簡単に治せる、というものだ。でも、それをしてしまうと、医療関連メーカーや医者が困るから隠している、というのである。
 そんなことありませんよね、と目の前のお医者さんに心の中で呼びかける。だってほら、先生は眼科なのに眼鏡をかけている。でも、と思う。これはフェイクかもしれない。いや、眼鏡越しに見える頬の輪郭が歪んでるからちゃんと度が入ってるよ。でもでも、顔の輪郭をわざと歪ませるレンズが開発されているのかも。まさか。先生、お願いですから教えてください。近視は目薬では治りませんよね。アポロは本当に月に行ったんですよね。人々はちゃんと線路内に立ち入って、猪は電車にぶつかりましたよね。

 

PR誌「ちくま」2月号

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