絶叫委員会

【第113回】恋心のピーク

PR誌「ちくま」3月号より穂村弘さんの連載を掲載します。

 或る夜のこと。ごはんを食べながら妻が云った。

「Rちゃん、好きな男の子がいるんだって」

 Rちゃんというのは、妻の友人の娘さんである。

「へえ、どんな子?」
「六年生のお兄さんだって」
「Rちゃんて幾つだっけ?」
「二年生」
「じゃ、同級生とかじゃないんだ」
「うん。ラジオ体操の時、そのお兄さんがみんなの前でする模範演技がかっこいいんだって」
「今もあるんだ、ラジオ体操」
「運動会の時、自分だけじゃなくてお兄さんの姿も撮ってって、K子に頼むんだって」

 K子さんはRちゃんのママである。

「本気だね」
「でも、ちょうどその直前でバッテリーが切れちゃって」
「ああ」
「怒られたって」
「お兄さん、美形なのかな?」
「K子には普通の少年に見えるんだけど、Rちゃんはその子の話をする時、両手を頬に当てて、きらきらしてるんだって」
「こうかな?」(と真似してみる)
「たぶん。きらきらしてないけど」
「何かがちがうんだ」
「K子が相手の子の名前を訊いたら、名札の名前が二つとも読めない字だからわからない、って云うんだって」

 あ、そうか、と思う。二年生だからなあ。「二つとも」ってことは二文字の名前。でも、「山田」とか「小林」なら読めるだろうし、「手塚」でも「手」は読める。「二つとも読めない字」の名前ってなんだろう。「嵯峨」とか「鵜飼」、いや、もしかしたら「服部」とかも読めないのかも。今の国語のカリキュラムで二年生までに習う漢字がわからないので推理が進まない。というか、そもそもこれだけの情報から名前を特定できるはずがない。それなのに何故か考えてしまう。
 小さな女の子が憧れのお兄さんを見上げる。その胸に名札がついている。彼の名前だ。文字が二つあって、でも、どちらも読めない。その眩しさを想像して、くらくらしてしまうのだ。大人の力を借りて、Rちゃんがお兄さんの名前を知った時、彼女は現実の恋に一歩近づくことになる。でも、恋心のピークは、読めない名札の眩しさの中にあるんじゃないか。

 

PR誌「ちくま」3月号

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