春日大社の巫女文化
藤原氏の氏(うじ)の社である奈良の春日大社は、とりわけ巫女の力を頼りにしていた神社であったらしい。延慶2年(1309)に春日大社に奉納された「春日権現験記絵巻」は、春日大社の来歴を語る長大な絵巻だが、巻一第一段の冒頭から、橘氏の娘に春日大明神が取り憑き託宣したことが記されている。どうやら春日大社には橘氏の娘という巫女が常駐していたらしい。時代を隔てて何度も登場することから、一代限りの一人の女性をさしているのではなくて、橘氏の娘として代々継いでいくような巫女の家筋が関わっていたものと思われる。
それだけでなく、この絵巻には民間に活躍していた巫女がさまざまなかたちで登場するのである。春日大社は民間の芸能民との縁が深く、おん祭という祭礼でこうした芸能者由来のさまざまな舞が奉納されていることが知られているが、芸能民には遊女(あそびめ)が含まれるし、遊女と巫女とは重なり合う。『梁塵秘抄』をみると、次のようにある。
遊女(あそび)の好む物、雑芸、鼓、小端舟、簦翳(おほがさかざし)、艫取女、男の愛祈る百大夫。
ここからは遊女が、雑芸や鼓打ちといった芸能をする者であること、また舟に乗る者であることがわかる。遊女たちは、宿場町や船の発着のある宿場で芸を披露し、お客をとっていた。したがって舟やその舵を取る者、遊女にかざす大きな笠といった、「法然上人絵伝」に描かれた室津の遊女そのものをイメージさせる事物が並んでいるのである[fig.2]。
さて巫女の舞いとはいったいどのようなものであったのだろう。同じく『梁塵秘抄』に次のようにある。
よくよくめでたく舞ふものは、巫(かうなぎ)、小楢葉、車の筒とかや、八千独楽(やちくま)、侏儒舞(ひきまひ)、手傀儡(てくぐつ)、花の園には蝶小鳥
よく舞うものとして、巫女、木の上からくるくる回りながら落ちてくる葉っぱ、車の車輪を支える軸、独楽などが挙がっている。これらから想像するに、巫女が披露する舞とは、くるくるとその場で回転しつづけるようなものであったらしい。そうすることでおそらくはトランス状態に陥って神を憑依させたのかもしれない。また蝶、小鳥などとともに挙がっている侏儒舞(ひきまい)は、芸能の場にみられる俗に小人と呼ばれる体の小さい者の舞である。手傀儡は人形遣いのことである。したがって巫女というのは、こうした芸能民と同じ職能民であって、神を憑依させ、神のことばを託宣することを稼業としていた者たちだということがわかる。そしてそれは遊女とときに重なりあうものでもあったのである。
「春日権現験記絵巻」巻四第四段には、若宮の拝殿で舞を舞っている巫女が神がかりして託宣をする話が出ているし、続く第五段にも若宮の前で集って神楽を舞っている巫女から託宣を得る話がでていて、若宮の拝殿前に巫女が来ては舞を舞い、春日大明神の神託を語ることがあったらしい。
それだけでなく、この絵巻には春日大明神が市井の巫女に憑依することも記されているのである。「春日権現験記絵巻」巻六第三段では、般若心経をのみ込んでしまった蛇をいじめていた子どもが重病におちいったので、護法占(ごほううら)をすると、春日大明神が憑依して、「私の知り合いが邪執によって蛇道に堕ちたので、救ってやるために般若心経をのみ込ませたのをいじめたのが返す返すも遺恨なので罰しているのだ。『大般若経』を読めば命は助かるだろう」といったので、その経を読んだところ病は癒えたという話である。この詞書きに対応する画をみると、春日大明神を神降ろしした者とは、鼓巫女であったことがわかる[fig.3]。庶民の家らしく飾り気のない板屋の奥の間で熱にうなされているような男児が臥している。それを心配そうに見守る二人の女は母親と乳母だろうか。母親のそばには病人が食べやすいように切り分けた果物が置かれている。手前の部屋では、曲げわっぱの大きなおひつのようなものを簡易の台として、その上に塩をのせた盆が置かれている。そのわきでは鼓を前に置き、病人を指さしている、はげ上がり、もはや性別不詳となった巫女の姿がある。大きな口をあけて何かを語っている様子なのは、この老女に春日大明神が憑依しているのであろう。老女の向かいにこちらに背を向けて座る男は、大きな数珠の輪を繰りながら神の託宣に耳をかたむける山伏である。
『梁塵秘抄』には「凄き山伏の好むものは、味気な凍てたる山つ芋、山葵、粿米、水、雫、沢には根芹とか」という唄があって、遊女の活動圏域には、山伏もいることがわかる。ここでの護法占では、おそらくは巫女と山伏とがペアとなって活動し、憑依状態にある巫女の言うことを解釈する審神者(さにわ)の役割を山伏がしているのだろう。