子どもの頃から少年漫画が苦手だった。バトルとか勝負で物事が決着することに違和感があった。ルールのあるスポールならまだしも、ルールのない闘いで勝ち負けがなんとなく双方納得して収まるのは不条理としか思えなかった。そこに至るまでの感情の動きなどに、腑に落ちない部分が多すぎたのだ。でも世の中一般ではバトルものの人気があるらしくて、昔はそれが謎でしょうがなかった。それよりもなぞなぞの方がよっぽど楽しかった。僕の興味は「言葉」そのものにしかなかった。
成長するにつれ、バトルものを求める人たちの気持ちも理解できるようにはなってきた。味方を守って敵を倒すとか、手強い目標をクリアするために挑むとか、行動原理や人間関係をものすごく単純化してしまうことで気分が楽になるという人がどうやら多いらしい。
それを思うと、イ・ヨンスク『「国語」という思想 近代日本の言語認識』(岩波現代文庫)は、表向きは近代日本の国語政策の変遷を分析したお堅い学術書だけど、言葉を主軸に展開される国語学者たちの熱いバトルの記録として読むとめっぽう面白い。学者かつ政治家として「国語」の確立につとめた上田万年。小物っぽい官僚的な振る舞いをみせながら密かに理想の国語政策へ邁進する保科孝一。国粋主義の立場から彼らと対立した山田孝雄。いずれもキャラが立ちまくり。しかも彼らは、言葉の力で国を動かそうとしたのだ。その結果として生じた他国語への侵略責任という罪もまた触れられている。それでも、言葉というフィールドでバトルを繰り広げた文系たちの熱気まで、否定しきれるものではない。
石戸諭『リスクと生きる、死者と生きる』(亜紀書房)の著者は、僕の大学のゼミの同期だ。政治思想史のゼミだったのだけれど、彼はジャーナリズムの道を進み、僕は紆余曲折を経て文学をやっている。この本は東日本大震災と原発事故の取材記だが、単純なノンフィクションではない。かといってエッセイでもない。本文から引用してみよう。
私には、科学的な事実を積み上げ、それを大量に書けば問題は解決するだろうと思っていた時期があった。当然、そんなことはありえない。(中略)人が何を考えて、どう行動しているのか、それはなぜなのか、ということを丁寧に言葉にして伝えていかないと「納得」にはつながらない。
文系というのは簡単に割り切れない人間的なものを取り扱う分野だと思われがちだけど、必ずしもそうじゃない。科学と、人間的なもの。その隙間を埋める技術としての役割もある。それはある種の職人技だ。そこに取り組もうとしている石戸君の姿に、僕は文系の誇りと熱さを見る。ま、文系と理系なんて雑な区分自体がくだらないものだと、石戸君なら一笑に付すかもしれないけどね。