丸屋九兵衛

第3回:竹内久美子、睾丸研究最前線を行く!……ではなく、日本型疑似科学の化けの皮

オタク的カテゴリーから学術的分野までカバーする才人にして怪人・丸屋九兵衛が、日々流れる世界中のニュースから注目トピックを取り上げ、独自の切り口で解説。人種問題から宗教、音楽、歴史学までジャンルの境界をなぎ倒し、多様化する世界を読むための補助線を引くのだ。

 最近、ムック『別冊正論』の最新31号『「日本型リベラル」の化けの皮』を愛読している。

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 当然、日本の正論を貫く産経新聞社が出してくださったもの。
 特にオススメしたいのが、「動物学で日本型リベラルを看ると――睾丸が小さい男はなりやすい!! 政治から学界まで本能の為せるワザ」という玉稿である。執筆者は、我らが竹内久美子先生だ。

 まず、この10ページにわたる論考の画期的な構成に心を打たれる。本旨であるはずの睾丸論は、7ページ目にようやく登場するのだ。この構成の妙!
 「共産主義、社会主義とは……女にモテない男たちにとって都合のいい思想」と、左翼どもを一刀両断にする、その小気味良さ!
 「こうして見てくると、日本人の男というのはまずは総じて世界でも睾丸のサイズが小さい人々であると言える」という断言も、我々を叱咤する金言と受け止めたいところだ。

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 ……と誉めまくってきたが、もちろん全て反語である。
 「去勢」「割礼」「片玉摘出」「ヘンリー8世」等々に一家言ある股間専門家としても、疑似科学を憎むSF愛好者としても、この馬鹿に反論しておく必要を感じたのだ。
 中途半端な科学は、徹底した迷信よりよっぽど始末が悪い。さっさと芽を摘まないと。

 この「動物学で日本型リベラルを看ると――睾丸が小さい男はなりやすい!!」の中で、竹内は書いている。
 「チンパンジーの睾丸が大きいのは乱婚社会ゆえ。オスは質・量ともに精子製造力が問われるから」と。
 ここまでは正しい。実際、乱婚とは程遠い、規則正しいハレムを形成するゴリラの場合、オスは――精子量産とは違う形でドミナンスを競うので――小さめの睾丸を持つのだ。

 しかし、「人類は、三大人種によって睾丸の重さが違う。ニグロイド50グラム、コーカソイド40グラム、モンゴロイド20グラム」「つまり我々モンゴロイドは最も浮気が起こりにくい人種」となると、論理の飛躍と言わざるを得まい(三大人種という概念もとっくにアウト・オブ・デイト)。
 そもそも、チンパンジーの乱婚とは制度化された乱交であり、彼らにとっての繁殖とは即ち乱交。一夫一妻を基本とする社会での浮気とは全くの別物だ。
 その二つを混同し「乱婚=浮気」と断定してOKなのであれば、「浮気=ある種の一夫多妻制」と言いくるめることもまた可能だろう。ここでゴリラ(一夫多妻制の極み)の睾丸の小ささを「証拠」として引用すれば、「我々モンゴロイドは最も浮気に秀でた人種、不倫エリート」という正反対の屁理屈を導くこともできるのではなかろうか。

 また竹内久美子は「睾丸の大きさとイクメン度」についても書いている。……62歳の学者が恥ずかしげもなく「イクメン」という言葉を使う勇気に感動を禁じ得ないが、まあそれはともかく。「睾丸の小さい男は子の世話をよくする」という一節、これも日本人男性への言及なのだろうか。日本の男はむしろ「育児への関与が低い」と言われてきたと思うのだが。

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 こう読み進めるうちに、読む者の心に湧き上がるのは「この睾丸トークはリベラル云々(でんでん)とどう関係するのか?」という疑問。そのタイミングを見計らったかのように、竹内先生は「共産主義、社会主義は睾丸サイズの小さい、つまり女にモテない男にフィットした思想である!」とブチあげるのだ。
 わからんわ、そのロジック。

 追い打ちをかけるように続くのが、「共産党が未だに存在する国でよく知られるのが、中国、北朝鮮、そして日本(=全てモンゴロイドの国。だから睾丸が小さい)」という文章。だが、その「よく知られる」の基準は全く不明だ。
 ヒップホップ専門家のわたしとしては、ラッパーの2パックが在籍していたYoung Communist League USA/Communist Party USAが忘れがたいから、アメリカも挙げておきたいところ。同様に、SF/ファンタジー専門家としてのわたしは、チャイナ・ミエヴィルが在籍していたSocialist Workers Partyが存在するイングランドに足を向けて眠れない(後者は共産ではなく社会主義なので「共産党が未だに存在する国」の範疇に入らんのか?)。

 竹内とて、孤高の共産道を貫くキューバに言及はしている。ただし、「キューバ人の睾丸サイズ自体は小さくない」、だから「キューバは本物の共産主義ではない、“なんちゃって共産主義”のようなものではないかと思う」と、独自の見解へのアクロバティックな着陸を披露するのだ。
 あの……。
 自分の理論に反する証拠を「例外」として無視するのは、前時代の学者がさんざん使ってきた詭弁ではないか。

 竹内久美子は、自分が目の敵にする「リベラル科学者」に関して、「科学的な態度とは言えないだろう。願望でしかない」と評しているが、その言葉をそのままそっくり返したい。

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 先に「中途半端な科学は、徹底した迷信より始末が悪い」と書いた。
 非科学的なマインド(like 竹内久美子)が科学を曲解することの危険さは、歴史が証明しているから。

 例えば。
 19世紀、黒人たちは生物として他人種より劣る存在と見なされていた。

 ダーウィンが『種の起源』を世に送り出したのは1859年である。
 ただし。本来、彼が使ったevolutionなる言葉は、単なる「変化」の意味。そこに価値判断などなく、「生物が環境に適応していく」ということをシンプルに語ったものだ。
 だが、植民地主義が眩く開花した19世紀という時代は、それをニュートラルなままにしておかなかった。「進歩」「上昇」等の価値観をたっぷり付与されて、曲解され、濫用され、拡大解釈された進化論は、「人類の中にも優劣あり」と定義するセオリーと誤解された。
 その結果、「人類の進化とは、類人猿に始まり、ホモ・サピエンスの最底辺である黒人→ちょいとマシな黄色人種→全世界の頂点たる白人さまに至る道である」と広く信じられるようになるのだ。

 こうして「黒人=人間とケダモノの中間地点」と見なされた時代に誕生したのが「ミンストレル・ショウ」。顔面黒塗りにした白人たちが「知能の低い黒人たち」を演じるドタバタ喜劇である。詳細は割愛するが。

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 もう一つの例として、ダウン症について書いておこう。

 君は知っているか?
 かつて、ダウン症がMongolian idiocy(モンゴル白痴症)もしくはMongolism(モンゴル症)と呼ばれていたことを。

 先述の通り、19世紀の白人にとって①人類の進化とは「類人猿→黒人(最底辺)→黄色人種(ちょっとマシ)→白人さま(万物の霊長)に至る道」だった。
 そして、同じく19世紀後半にはエルンスト・ヘッケルの反復説もあった。②「個体発生は系統発生を繰り返す」というやつだ。要は、「生物は、卵の中 or 母の胎内で、その種族が辿ってきた進化の過程を反復する」というセオリーである。

 そんな19世紀後半に、ジョン・ラングドン・ダウン博士が報告したのが――のちに彼の名をとってダウン症として知られるようになる――「モンゴル白痴症」だった。

 こんな名称になった理由は……。
 ダウン症の皆さん(白人)を観察した博士は、その特徴に気づいた。「小柄な体格」「目が吊り上がり気味」「まぶたは肉厚」「鼻が低い」等々。
 「これはなんともアジア的ではないか! その知能指数(の低さ)も含めて」。
 ダウン博士の脳内で上記の①②が合体したのは、その瞬間だった。「この子たちは、母の胎内で進化の過程を反復している時、哀れにも黄色人種の段階で止まってしまったのだ!」と。
 彼ら19世紀の非科学的な科学者どもは、本気でそう信じていたのだ。

 やがて、当の黄色人種にも同様の症状を持つ人々がいることが判明して、そのロジックは崩壊した。だが、いったん確立された名称は、なかなか廃れないものだ。
 ダウン博士の報告からほぼ100年経った1961年、遺伝学者たちが「モンゴル白痴症をやめてダウン症候群等のタームを用いるべき」という声明を発表。
 1980年代、アメリカではまだまだMongolian idiocyという呼び名が普通だった。
 21世紀になって、ようやく英語圏では前時代の遺物に。
 だが、この2018年でもフランスではmongolismeが通用しているようだ。

 わたしの左前腕部にあるタトゥー「Mongolian Genius(モンゴル天才)」は、Mongolian idiocy(モンゴル白痴症)という言葉を生んだ優生思想に引導を渡すべく彫ったものだ。
 いや、モンゴル白痴症だけでなく、レイシズム擁護に繋がりかねない全ての疑似科学へのアンチテーゼとして。

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 19世紀後半の産物をもう一つ紹介しよう。
 雑誌『ナショナル ジオグラフィック』だ。

 先ごろ発刊された同誌2018年4月号『人種特集』は、だからこそ非常に意義深い。
 本国アメリカ版編集長のスーザン・ゴールドバーグ。彼女は、1888年の創刊以来、10人目(あれ? 意外に少ない)の編集長にして、初の女性、初のユダヤ系だという。これだけでも意外の感に打たれるが、彼女が発表した声明はさらに胸を打つ。   
 http://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/18/032600133/

 日本版刊行開始以来ずっと『ナショナル ジオグラフィック』読者のわたしも、これを読むまで知らなかったよ。かつての『ナショナル ジオグラフィック』が、植民地主義と人種差別の尖兵だったとは。
 例えば、1916年のオーストラリア関連記事。オーストラリア先住民を撮影した写真には「これらの未開人は、全人類の中でも最も知能が低い」と書かれていたという。
 このストレートなレイシストぶり! 時代背景を考えれば当然のことでもあるのだが。
 同特集に協力したヴァージニア大学のジョン・エドウィン・メイソン教授の発言を引用すると……「ナショナル ジオグラフィックは、植民地主義が頂点にあった時代に創刊されました。当時、世界は植民地支配をする側とされる側に分かれていました。それは肌の色で線引きされていました。ナショジオは、その世界観を反映していました」。
 教授の発言にわたしが勝手に付け加えるなら、それは「支配する側と支配される側が、生物としての優劣で色分けされていた時代」でもあった。
 生物学だけで片付けられるわけがない社会・人文的なトピック――どの国がいち早く鉄器文明を築いたか、どの民族が浮気がちか、どんな人が特定の思想を好むか、どの血液型が内向的か等々――を「生物としての特質」で説明した気になるのは、非科学の極みであり、人道から外れた行為でもある。

 ここで再び、『ナショナル ジオグラフィック』のスーザン・ゴールドバーグ編集長の発言を。
 「2018年4月号で人種を特集しようと決めた時、他人を取材する前にまず自分たちの過去を振り返るべきだろうと考えた」。

 世の中には反省する人がいる。

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 反省しない人もいる。

 そこで。
 竹内久美子には、ジェフリー・フォードによる幻想小説『白い果実』を勧めたい。観相学(という擬似科学)を信じて生きてきた主人公(差別意識の塊)が、その盲信ゆえに失敗を犯し、島流しの憂き目に遭うのだ。