この記事でわかるのは……東スポも、「公式まくらことば」を受け入れる日本の一般的なマスメディアなのだ、ということ。
「ゆたぼん=YouTuber」はすんなり理解できるが、「少年革命家」とは何だろう。故・北尾光司の「スポーツ冒険家」や油井昌由樹の「夕陽評論家」と同種、実態のない肩書きであり、本人側の主張にすぎないではないか。折に触れて「養老院で過ごすエルヴィスの現在」や「カッパ目撃談」を伝えてくれる東スポが、「EXILE映画をヤンキーと形容するな」と言われて従うタイプなのだと考えると、何やら寂しい気がする。
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さて。
「ゆたぼん父」こと中村幸也は「多様な学びの機会を得られる国づくりができれば」と言う。
でも、その「多様な学び」の中から学習コースを選択するのは、きっと子供自身ではない。
仮に子供が自分で選んだとしても、それを選ぶマインドセットは生まれ落ちてからの環境により培われたもの。主に家庭内で自然に行われる教育以前の教育ともいえるし、乱暴にいえば「洗脳」でもある。不登校の「少年革命家」ゆたぼんも、家庭内環境による洗脳の産物だ。
非難めいて聞こえるとしたら失礼。実のところ、洗脳ではない教育なぞ存在しないと思うから。
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わたしも「不登校=非難すべきもの」とは考えていないのだ。もちろん。
英語圏で超絶ブレイクを果たしたインドネシアのラッパー、リッチ・チガあらためリッチ・ブライアンも学校に行っていない。もっとも彼の場合は「実家のカフェを手伝うのに忙しかったから」だが。それにしても、YouTubeでチャイルディッシュ・ガンビーノらのビデオを見ているうちに英語ができるようになり、"Dat $tick"という一発で世界の注目を浴びることになるのだから、彼はきっと自宅学習でよかったのだろう、と思える。
とはいえ、それが将来どちらにどう転ぶか、誰にわかる?
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人生とは根本的に不平等なものである。
人は生まれ落ちるところを選べない。どんな社会のどんな階級のどんな家に生を受けるか。この出発点で、その後の歩みはだいぶ違ってくるというのに。
そんなスタート地点のデコボコをなるべく平らにしよう、できるだけ均等化しようというのが、近代以降の普通教育・義務教育の理念なのだと思う(より推し進めると『地球へ…』になる)。
だが、平等化のモデルとなる社会の平均値/最頻値/中央値はどこにあるのか?
何が普通で何が異常なのか、それを誰が決めるのか。
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あれは中学だったか高校だったか。教師がこう語っていたのを覚えている。
「体育の授業で剣道を拒否する子がいてね。これではやっていけないということで転校してもらった」
もっとも、わたしも剣道経験なぞない。このエピソード、件の教師のかつての任地での記憶、ということだったのか。
なんにせよ、その話で聞いただけの剣道拒否少年について考えた。
彼は、おそらく「エホバの証人」家庭の子だったのではないかと思う。「戦いを学ばない」ことを信条に良心的兵役拒否を貫くことでも知られる人々だから。
剣道拒否ごときで退学を余儀なくされたのは不憫だが、退学したところで命に別状はない。
より重大な問題となるのは、生死を分けるケースである。
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エホバの証人といえば、80年代日本の「輸血拒否事件」を知る人もいよう。
1985年、神奈川県川崎市、自動車事故で両脚を複雑骨折した10歳児。救急救命センター到着時に輸血を開始すれば助かったろうが、エホバの証人の信者である両親が教団の信条に基づいて輸血を拒否したため、死に至った……という事件だ。
同じくエホバの証人家庭の児童で、同じく幼少期に自動車事故に遭った人物として、先ごろ亡くなったばかりのDMXもいる。幸いにして、彼の場合は輸血の問題にならはなかったが。
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信仰とはまた別の信条の問題だが、ヴィーガン家庭に生を受けるのもなかなか過酷な経験となりうるらしい。
2018年3月。動物性食品を一切口にしない完全菜食主義のオーストラリア人夫婦のもとから当局に保護された1歳7ヶ月の女児。夫婦は自分たちのヴィーガニズムを乳児にも強いていたようで――もしや、「これも動物性食品だから」と母乳も禁止?――保護当時の女児は深刻な栄養失調に陥っていた。
●1歳7ヶ月だが、外見は生後3ヶ月程度
●体重はわずか4.9キロ
●歯が生えていなかった
●言葉が話せず、食事も取れず、寝返りすら打てず
彼女を引き取った里親の証言では「発達が他の子供たちより遅れている」とのことだった。このダメージはたぶん取り返しがつかないだろう。しかし、同様のヴィーガン両親のもとに生まれ衰弱死した例も伝えられているから、先のヴィーガン児童はまだラッキーだった、と考えるべきなのかどうか。
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上記、エホバの証人やヴィーガン家庭でえらい目に遭った子供たち。彼らの経験を見て我々傍観者が感じるのは憤りだろう。
それを言語化するなら、「おまえたちが信条に殉ずるのは勝手だが、子供にそれを強制するな」となろうか。
とはいえ、その信条がファナティックと見なされ非難されるのは、それが社会的少数派の生き方だからだ。
一方、多数派のやり方は社会の常識とされる。常識的な家庭だって、彼らは彼らの流儀で子供を洗脳しているのに。そして、常識が狂信的だったのは、さほど昔の話ではない。
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ある人曰く。
みんなが興味あるのはゆたぼんがこの先どうなるかという人体実験の結果であってゆたぼんパパには微塵も興味持ってないってことを誰か教えてやれよ
でも、そもそも実験ではない人生があるだろうか?
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1972年、アメリカの黒人学生支援団体であるUnited Negro College Fundが打ち出したモットーがある。
A mind is a terrible thing to waste.
史上最強のキャッチコピーの一つとも言われるこれ。たっぷり言葉を補って意訳すると「優秀な人材となりうる若者たちに高等教育を受けるチャンスを与えないのは(国家にとって)大いなる損失だ」となろうか。
だが、マルコムXからジェイZまでの例を見ればわかるように、決まり切った高等教育を経ていないからこそ開花した才能もある。問題は、ホモ・サピエンスは一個体一個体がそれぞれにユニーク、独特で唯一無二なケースだということ。ゆえに、どの個体にどんな教育法がベストなのか、やってみなければわからない。さらに、やってみたところでわからない。選ばなかった道で何が起こり得たか、そちらを歩まなかった以上は知りようがないからだ。
だから、すべての人生が実験なのだと思う。そこから導き出された結論が他の人生に活かされることはあまりない、とても不毛な実験。
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実験を極めた人として、神聖ローマ帝国皇帝フリードリヒ2世(在位:1220年〜1250年)がいる。
その知性は先進地域イスラム圏のアイユーブ朝でも賞賛されたほどだが、同時に人命を顧みない非情なエクスペリメントに走る男でもあった。
人類の根源的な言語を突き止めたいと思った彼は、一つの実験を試みた。生まれたばかりの捨て子たち50人を集め、乳母と看護師に養育を命じたのだ。ただし大人たちは赤子たちに話しかけてはならない! つまり、生命維持に必要な世話はOKだが、赤ん坊の脳内プログラム発達に影響しそうな人間的コミュニケーションを禁止したのである。狙いは「人間の言葉をいっさい聞かずに育った子供なら、アダムとイヴが使っていた謎の原初的言語を使うのではないか」というもの。しかし、愛情も人間らしいやりとりもなく育てられた子供たちは、(一説では)3歳までに49人が死亡、最後の1人も6歳で世を去ったという。
その6歳児も何か喋ったという記録がない。50人もの犠牲者を出しながら、フリードリヒの実験は実を結ばなかったのである。いや、「ホモ・サピエンスは愛情なしで生きていけない」ということだけは判明した、と言えるかもしれない。
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犠牲者という言葉で思い出した人物。
それは、かつて大阪でメガホン片手にヘイトスピーチを発信、在日コリアンたちに向かって「鶴橋大虐殺」を宣言していた嫌韓女子中学生だ。
有名なレイシスト家庭に生を受けてああなったらしい彼女、その後はどうしているのか。
……え、今やK-POPファン?! でも今も在特会? 解釈に苦しむが、親の洗脳/教育から解放され、自分の道を模索している最中なのかどうか。その判断は今後の展開を待ちたいと思う。
今回、少年革命家ゆたぼんから「鶴橋大虐殺」少女までの諸例を眺めるうちに、脳裏に浮かんできたのが芥川龍之介の至言である。
「人生は狂人の主催に成ったオリンピック大会に似たものである。我我は人生と闘いながら、人生と闘うことを学ばねばならぬ」(「侏儒の言葉」より)
嗚呼。