■ロサンゼルスの珍事
きたる11月8日に行われるロサンゼルス市長選。当初は多くの候補者がいたが――中国系でグアテマラ系でメキシコ経由のアメリカ人男性、ケヴィン・デ・レオンという面白い人材も――脱落し、最終的に残っているのは民主党議員を務めてきた黒人女性カレン・バスと、共和党系の白人男性で不動産王のリック・カルーソの二人だ。後者は『ベスト・キッド』〜『コブラ会』に出てきそうな姓(それはラルーソ)だから、イタリア系であることは想像できる。
注目すべきは二人の一騎討ちとなった先月の討論会におけるリック・カルーソの発言。「この二人のうちのどちらか、アフリカン・アメリカン女性か白人男性がロサンゼルス市長となるわけです」と司会者が紹介したところ、「わたしはイタリアンだ、イタリア系アメリカ人だ。つまりラテンだ」と、白人男性呼ばわりをやんわり拒否する姿勢を見せたのだ。
これを聞いたトレヴァー・ノア曰く。
「しかし、"ラテン・フードをご馳走するよ"と言ったやつがOlive Garden(イタリア料理チェーン店)のテイクアウトを持って帰ってきたら、みんな失望するぞ」
少なくとも英語圏では、ラテンとはすなわちラティーノのことであり、イタリアンはいわば「ラテン失格」の憂き目に遭っているらしい。
「イタリア系のバンドだと思ったから出演を許可したのにメキシコ系かよ。お断りだ」
これはジェニファー・ロペスの出世映画『セレナ』の冒頭部で描かれたメキシカン差別のあり方。背景には、アメリカへの移民を始めた当初は白人扱いされなかったイタリア系が長い年月をかけて獲得した「ホワイト」という地位がある。しかし代償として「ラテン」としての地位を剥奪された、ということか。
件のリック・カルーソは、その後「わたしはラティーノ・コミュニティと強い繋がりがある。もちろん市長になったら、全てのコミュニティと繋がらねば」などと発言していたが……ラティーノ・コミュニティと強い繋がり? 本当だろうか?
そんな変わりゆくラテン観を見つめる今回は、前回の【職務質問THEN&NOWから広がる】に続く後編。もちろん発端は珍説「大麻使用者はラテン系の服装を好む」なのだが!
■レゲエ始末
前回「レゲエは断じてラテン音楽ではない」と書いたら、「ラテン音楽って言われてるの、別にラテン語文化と結びついてないんだから、歴史より音楽としての性質なんじゃないかと思うんだが。ラテンという名前がつきつつ、実際はアフリカ由来のリズム系とかが軸なような」という意見があった。
……レゲエは、まさに「音楽としての性質」が、いわゆる「ラテン音楽」と全然違うやんか。とはいえ、ラテンアメリカの音楽の多くも、充分にアフリカ起源。しかし、ポイントが「アフリカ由来のリズムが軸」なのであれば、それはただ単に黒人音楽だ。レゲエを広めのカテゴリーに入れるなら「レゲエはブラック・ミュージックの一種」であって、ラテン呼ばわりはやはり意味不明である。
とはいえ。個人の感想なら、どんな的外れなことを言っても基本的には自由だ、もちろん。トルコ料理を食べて「インドの味」と評そうが、ヒンディー語R&Bを聴いて「韓流っぽいですね」と発言しようが。あるいはパンクを「ヘビメタ」の一部と見なそうが(それは板東英二)、カンフーとカラテを同一視しようが(あ、それは梶原一騎。プロやんか)構わないだろう。
しかし、音楽雑誌の編集陣と執筆陣が集まっている場所で、プロがそういう発言をすると途端に知性がほとばしることとなりはしまいか。
■カリビアン・クイーンは何語を話すのか
では「レゲエ」がタイトルに含まれているスティーヴィ・ワンダーの1974年曲はどうだろう?
アルバム『Fulfillingness' First Finale』からのセカンド・シングル、"Boogie On Reggae Woman"のことだ。
これはいい曲だが、同時に珍品でもある。タイトルに反して、ブギーでもなく、レゲエでもなく、女性の参加もない(ガーナ人パーカッショニスト以外はスティーヴィ本人しかいない)のだから。この否定の三重苦、神聖ローマ帝国が「神聖でもなくローマでもなく帝国でもない」と全否定されて以来の快挙だと思うが、それはともかくブギーでもレゲエでもないとしたら、それは何なのか? 「ファンクだ」と言い切る人もいるが、わたしの耳にはそう単純には聞こえない。のちのエディ・グラントに通じる軽量級のカリビアン感があるから。
このカリビアンというのも、把握が厄介な概念だ。
地理的には、カリブ海に点在する列島を中心とする地域。
政治的には、カリブ海の島々だけではなく、大陸部の諸国も含むことがある。
言語的には英語、スペイン語、フランス語、オランダ語、ヒンディー語と各クレオールが入り乱れる。ついでに、中華系商人のプレゼンスも決して小さくない。
今回のトピックに絡めて「ラテンか否か」を問うなら……ラテンでもあり、非ラテンでもあり、となろうか。
■フランス語圏という鬼門
わたしは"ドジさま"こと木原敏江というマンガ家が好きだ。
「花伝ツァ」や「大江山花伝」あたりは延長しようがないから諦めるとして、もっともっと長く続けて欲しかったのが、フランス人の美青年学者/作家、アングレアヌ・サフォランが主人公のシリーズ。
その中に、アフリカを舞台にした怪獣エイリアン冒険譚、「ダイヤモンド・ゴジラーン」という中編がある。モンスターと共に秘境に消えた謎のギャングスタを巡って、イングランド貴族のサー・ヘンリー・スコットとアングレアヌは「あれは間違いなくアングロサクソンだ」「サー、彼はたぶんラテン人種ですよ」と議論するのだが、アングレアヌが言う「ラテン」とは何だろう?
イタリアがラテン扱いされない現代において、さらに非ラテン的なのがフランスであり、フランス語圏だ。
ケベック州の文物やケイジャン料理をラテン文化とは呼ばない。リック・カルーソと違って、ジャスティン・トルドー首相が「わたしはラテン」と主張することもない。セネガルが「ラテン・アフリカ」扱いされる例も見たことがない。しかし、問題はカリブ海にある。
19世紀初頭、奴隷反乱によりフランスから独立を勝ち取ったハイチだ。
ヒップホップ界にはホメイニもカダフィもアミンもフセインもノリエガもいる。つまり、そう名乗っているラッパーがいる。そのうちのノリエガは、かつてカポーン(=カポネ)というラッパーと組み「カポネとノリエガ」でCapone-N-Noreagaとして活動していた。略称はCNNだ。
このノリエガはプエルトリコ系だが、カポーンはハイチ系。そんなカポーンを「ラティーノ」と紹介した人がいて、それを見たわたしは頭を抱えてしまった。
山川出版社の世界史リブレット『ラテンアメリカの歴史』に描いてある通り、断じてアングロ・アメリカではなく、さりとてラテン・アメリカとも言い難いハイチの扱いにみんなが悩むのは事実ではあるが、そこで悩みもせずにラティーノという語彙を出してくる人は、世界のあり方によほど興味がないのだろう。
■大陸を島嶼化するということ
80年代、日本ではブラジル的なサンバ・パレードが「カリブの島からやってきたサンバ」として宣伝されていたという。大陸全体の約半分を占める国を「島」と断言する説得力!
残念ながらソースを確認するすべがないが、長い人生の中で見聞きした日本人の知性から判断するに、大いにありうる話かと思う。
ブラジルについて。
みんな大好きチェザレ・ボルジアの父、ローマ教皇アレクサンデル6世が規定した「教皇子午線」によるスペインとポルトガルの手打ちは、アメリカ大陸の言語地図に決定的な影響を与えた。特に南アメリカに。その結果、ほとんどがスペイン語圏となり、ブラジル一国だけがポルトガル語圏となった。
さて、普段はほぼ「互換可能な言葉」として使われる「ラティーノ」と「ヒスパニック」だが、後者「ヒスパニック」は、スペインに由来する単語だ。であるがゆえに、ブラジル系は「ラティーノではあってもヒスパニックではない」というレアなカテゴリーに属することになる。まあブラジル本国は2億もの人口を抱える大国なのだが。
■ラティーノ&ヒスパニック
我が友人に、シカゴ在住のラミレス・ファミリーがいる。彼らはプエルトリコ系家族。「プエルトリカンであるということは、さまざまな血が混じっているということだ」と彼らは言う。そんなラミレス夫婦、妻は色白だが、夫は色黒で、つまり見た目は黒人だ。
アメリカにはDWB(driving while black)という言葉があるくらいで、運転しているのが黒人だと交通担当の警察官はことさら厳しくあたる。ラミレス夫は見た目が黒人であるがゆえにまず見咎められ、姓名からラティーノでもあることがわかると、さらに入念なチェックを受けるという。そんな光景を幼少時から目撃しすぎたため、ラミレス息子は人種差別(レイシャル・プロファイリング)的な職務質問をテーマにした永遠不滅の名曲を口ずさむようになってしまった。
カミリオネアの"Ridin' ft. Krayzie Bone"である。
ラティーノにせよ、ヒスパニックにせよ。それは人種ではなく、より大きな民族集合体である。かつてスペイン帝国とポルトガル帝国がアメリカ大陸&カリブ海に持っていた植民地出身でアメリカ合衆国に渡った人たちを、ぼんやりとまとめるような、まとまっていないような。
■太陽が沈まない国
マスターズ・アット・ワークが、フリオ・イグレシアスと仕事した時の思い出を語ってくれたことがある。フリオが親しみを込めた呼びかけに使ったスペイン語の単語――たぶん「マイ・マザーファッカーズ!」に近いことを言ったのではないか――が、同じくスペイン語圏なれどプエルトリカンの彼らにとってはストレートな罵倒表現以外の何物でもなかったため、非常に面喰らった、という話である。彼らにとっては口にするのも憚られる言葉らしく、その単語の正体は教えてもらえなかった。
さて、フリオ・イグレシアス。めっちゃラティーノらしく見える……かもしれないが、実際にはスペイン人。ラテンとは言えるかもしれないが、ラティーノではない。さらに、息子のエンリケは半分フィリピン系なので、ますます話がややこしい……。
そうだ、フィリピンについて書いておかねば。
フィリピン系アメリカ人コメディアン、ジョー・コイ(Jo Koy)のスタンダップにこんな一幕がある。
「スペイン人はフィリピンを350年も支配してた。その間に当然、血が混じる。だから俺たちはハイブリッドだ。スパニッシュ+エイジャン=フィリピーノ。アジアの真ん中にあるのに、俺たちにはアジア人らしい名字もない! スペイン人が名前を残していったから、姓はラティーノだ。うちの親戚だけでも、デ・ラ・フエンテ、サントス、ゴンザレス。ほとんどメキシカン!」
アジア系アメリカ人のあれこれをまとめた書籍『Rise: A Pop History of Asian America from the Nineties to Now』を探して彷徨っていた時のこと。洋書専門のBooks Kinokuniya Tokyoで、親切な店員さんのおかげで遂に同書と巡り会うことができた。その際、表紙にブルーノ・マーズの顔を見つけた彼の困惑を思い出す。
「ラテンの人じゃないんですか?」
ブルーノ・マーズは確かにプエルトリカンだがユダヤ系でもあり、なおかつスペイン系でフィリピーノで、ハワイ生まれ。「赤ん坊の頃は顔が"人間発電所"ブルーノ・サンマルチノ似だった(芸名の由来)」という複雑な人なのだよ。
■ラティーノ&ヒスパニック2
繰り返しになるが、普段はほぼ「互換可能な言葉」として使われる「ラティーノ」と「ヒスパニック」。とはいえ、「ラティーノ&ヒスパニック」という表現があったら、注意したほうがいい、と聞く。そのラティーノとヒスパニックは違う集団を指しているから、と。
この場合、ヒスパニックとは即ちメキシコ系であり、一方のラティーノは「広義のラティーノのうちメキシカン以外」の意味だという。
そんな世間で、「ラティーノではない。ヒスパニックでもない。メキシカンだ」と書いたTシャツを着ていたのはブラック・アイド・ピーズのタブーことJaime Luis Gómezである。
彼自身はロサンゼルス生まれ、しかし両親はどちらもメキシコ生まれ。だから、(広義の)ラティーノであり、ヒスパニックでもあり、メキシカンでもあるわけだが、同時に彼は北米先住民の一民族、ショショーニ(Shoshone)の一員でもある。
それで思い出したのが、モトリー・クルーの伝記映画『The Dirt』だ。
同バンドのシンガー、コンプトン育ちのヴィンス・ニールは母方がメキシカン、父方はネイティヴアメリカンの血を引いている。せっかくメタル界の意外な多様性を体現する一人なのに、『The Dirt』でヴィンスを演じた役者はとても白かった。2パックの伝記映画『オール・アイズ・オン・ミー』におけるLeila Steinberg(本人はメキシカンでトルコ系でユダヤ系なのに)役のキャスティング同様に、違和感が残るのだった。
しかし、『The Dirt』と同じNetflixものでも、この11月から始まる『Wednesday』には期待したい。『The Addams Family』の娘、ウェンズデイ・アダムスを主役にしたスピンオフだ。メキシコ系でプエルトリコ系でもあるアメリカ人、ジェナ・オルテガが演じるウェンズデイは、はっきりメキシカンとして描かれている。
「俺たちのアダムズ一家がラティーノとは!」と暴れる白人至上主義者がいるようだが、彼女の父親の名前を見たまえ。ゴメス・アダムズだぞ。
そんな『Wednesday』、予告編の一つに出てくるウェンズデイの決めゼリフが素晴らしい。
曰く「我が家の"死者の日"は1年中続く」。
しかし、その死者の日(ディア・デ・ロス・ムエルトス)は、とてもメキシコらしい祭りであると同時に、とてもアステカ色が強いものでもある。
そもそもメキシコは、アステカを征服し滅ぼしたスペイン人コンキスタドールどもが建てた植民地帝国のなれの果て。国民の大半は先住民の血もスペインの血も引いているが、メキシカンの多くはコンキスタドールではなくアステカの方にアイデンティファイしているという。となると、アステカとスペイン、最終的に勝ったのはどちらなのか。
■アイデンティティのこと
人の帰属意識というのは、簡単に割り切れるものでも、一言で説明できるものでもない。
アステカの末裔であり、スペインの血も引き、英語話者でありスペイン語話者であり、メキシカンであり、ヒスパニックであり、ラティーノであるメキシコ系アメリカ人(いわゆるチカーノ)に惹かれるわたしだが、よくよく考えてみれば、ここアジアでも重層的に連なったアイデンティティは至るところで見受けられるものだ。
例えば、我がシンガポールの友人。彼は華人(中華民族)であり、福建人であり(母方)、広東人でもあり(父方)、北京語話者であり英語話者であり、キリスト教徒でありながら祖先崇拝も忘れず、海南鶏飯とフィッシュヘッドカレーを同時に愛するシンガポール国民だから。