ラジオ番組で一緒になった宇垣美里という人物が「ポリコレ棒を振り回すクソフェミ」と形容されているのを後から発見して、驚いた覚えがある。
であれば、わたし自身もクソフェミのカテゴリーに分類されるのだろう。そして――企業がやたらと語りたがるコンプライアンスというものは方便に過ぎないが――ポリティカル・コレクトネスは、価値観が多様化した社会に必要不可欠な潤滑油だ。
しかし、ポリティカリー・コレクトであることは、何かのキーワードに対して文脈も状況も読まず、反射的に物言いをつけることを意味するものではない。
例えば、今現在のわたしが冷戦時代の参考書として読み返しているのは、青池保子の『エロイカより愛をこめて』。
主人公「怪盗エロイカ」ことドリアン・レッド・グローリア伯爵が同性愛者であるがゆえに、そこかしこに「ホモ」「おかま」というタームが登場する。だが、それはそういう時代だったからだ。そこにいちいち反応するのは、1950年代のアメリカ文学や映画で黒人がnegroやcoloredと呼ばれるたびに激怒するのに近い。
そんな話題で始めたのには理由がある。
ようやく終わってくれた東京オリンピック。その開幕直前のゴタゴタの中でもひときわ印象に残ったのが、小林賢太郎が「ラーメンズ」時代に披露していたホロコースト(ユダヤ人大量虐殺)を揶揄するネタにまつわるモロモロだったのだ。
イスラエル大好きな我らが防衛副大臣、中山"やっちゃん"泰秀については以前から知っていたが、小林賢太郎という名前もラーメンズという存在も聞いたのはこれが初めてだ。だから、問題となった「ユダヤ人大量虐殺ごっこ」コントを見る際もニュートラルな姿勢で臨めた……と言えればいいのだが、むしろ、コント内で言及される「ユダヤ人大量虐殺ごっこ」の真意を測れず、という結果に終わった。
ラーメンズの芸風を知らないがゆえに。
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こう主張する人もいる。
原爆Tシャツに関しては過去の原稿を参照してもらうとして。北朝鮮による日本人拉致にしても、それが否定的な意図なら「ネタとして使われることは許しがたい」とは思わないのだ。
とはいえ、ここでは話題をホロコーストに戻そう。「#高市早苗さんを総理大臣に」というハッシュド・タグが踊る今日この頃だし。
ユダヤ人虐殺をネタにしてはいかんのなら、そのマスターマインドたるヒトラーで笑いを取るのもどうかと思う。
しかし、コメディの歴史に目を向ければ、ヒトラーを徹底的に笑いのめしたチャップリンがいる。メル・ブルックスやタイカ・ワイティティの芸も、差別する側の理不尽さとアホさ加減をあぶり出す素晴らしいものだ。ちょいと趣は違うが、再起を図って辿り着いたアフリカで「ガーナーリア人」を率いる、怪作『アフリカン・カンフー・ナチス』のヒトラーもアホにしか見えない。我が家の本棚にある秘密警察系ヴァイオレンス歴史改変コメディSF『Gestapo Mars(ゲシュタポ・マーズ)』も、やはりアホらしい(が、半分も読んでいない。ごめん)。
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オリンピックとユダヤ人殺害という組み合わせ。
すぐに思い出されるのが、1972年の「ミュンヘン五輪事件」である。ミュンヘンの選手村にパレスチナ武装組織「黒い九月」が潜入、イスラエル選手団の宿舎を急襲して同国のアスリートを人質にとって立てこもり、結果的に11名を殺害することになる、陰惨な事件だ。
今、この事件に言及するのはなかなかタイムリーである。去る7月23日の東京オリンピック開会式で、あの時に死亡したイスラエル選手団への黙祷が五輪史上初めて行われたのだから。
しかし、この悲劇すら笑いのネタになる。
2012年の映画『ディクテーター 身元不明でニューヨーク』だ。北アフリカにある架空のアラブ国家ワディヤの独裁者アラディーンが余暇に興じるのは、ミュンヘン五輪を舞台にしたイスラエル人アスリート惨殺ゲームなのだ!
そんなことが許されるのは、主演&製作のサシャ・バロン・コーエンがユダヤ人であるがゆえ。
だが、ここで問いたい。イングランドのユダヤ系ボンボンであるサシャ・バロン・コーエンがイスラエルと敵対する諸国の政治的混迷を笑うのはいいのか? ワディヤは架空だからいいのか? では『ボラット』シリーズは? 実在する国家、カザフスタンが題材なのだが。
芸能とメディアとエンタテインメントにおけるユダヤ人のドミナンスについては、語り始めると長くなるのでやめておく。その現状自体は責めるべきものではないと思うこともあり。
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直接的に笑いを誘うコメディであるかどうかはともかくとして、エンタテインメントと差別について考える。
差別を助長するようなものは論外だ。しかし、差別という行為の理不尽さをあぶり出すような切り口なら、そのエンタテインメントは世の偏見と戦う最大の武器となる。
要するに……
「差別で笑う」のは良くない。
「差別しているアホを笑う」のは良い。
では「差別しているアホを笑う」ための最善の策は?
表現者自身が、その差別者を演じるのだ!
最高の例として、『最終絶叫計画』こと"Scary Movie"で知られる黒人コメディアン一家、ウェイアンズ・ファミリーによる1996年の映画"Don't Be a Menace to South Central While Drinking Your Juice in the Hood"を振り返ろう。『ポップ・ガン』という邦題があるにはあるが、それでは意味がわからん。これは90年代前半に一世を風靡した黒人青年ギャングスタ悲劇映画、いわゆる「フッドもの」の集大成パロディ。つまり、そのスジの名作である"Menace II Society"と"South Central"と"Juice"と"Boyz n the Hood"を合わせたタイトルなのだ。
この映画に、主人公アシュトレイと友人プリーチが会話する場面がある。
Ashtray : Hey, Preach, what up n!gga?
Preach : Y'all need to stop using the word n!gga. You see, it's terms like the word n!gga that the white man uses to take away the self esteem of another race.
Ashtray : Word.
Preach : Oh yeah, remind me to pick my laundry up from that chink motherfucker up the street.
同胞(黒人)に向かってNワード(元々は黒人への蔑称)で呼びかけるアシュトレイを「それは白人が他人種の尊厳を奪うために使う言葉だ!」と諌める、意識高い系の黒人青年プリーチ。そんな彼が、クリーニング店を経営する(というステレオタイプな)アジア系住民を「チンク・マザーファッカー」呼ばわりするというオチだ。チンクとはもちろん中国人を揶揄する言葉で、そこから転じて東アジア〜東南アジア系全体に当てはまる蔑称となったものである。
この「意識高いはずのやつが、一皮剥いたらレイシストやった!」という笑いは、20年と少し後に日本でも試みられた。
曰く……
小林「キレイな早口言葉言おか。キレイなみんな幸せになる早口言葉。黒人、白人、黄色人種。みんな合わせて地球人」
友保「いいねえ。黒人も白人も黄色人種もね、差別なく、地球っていうひとつの星に住んでんねんから。地球人。差別なくキレイに生きよ。いいこと言ってんのよ、本当に。山田くん、ちょっと。コバちゃんに座布団40キロ持ってきて。黒人に運ばせてよ」
小林「なんで黒人に運ばすの。なんで黒人に運ばすのよ、お前。黒人が触ったもの座れるか!」
友保「おい!」
そう、金属バットである。
一時期は彼らも「差別自体を揶揄している」ように見えたものだ。なぜなら、ここには明らかに「寸劇」「演じている」という要素があるから。
「マナカナの見分け方」等の醜悪な差別ネタ(当の三倉茉奈が称賛するという汚点もついた)により、結局はアホな無自覚レイシストであることが判明したが、金属バットの芸風全体を知らない時点でのわたしは、「これは思い切ったところまで踏み込んだ風刺では?」と期待した。先の"Don't Be a Menace to South Central While Drinking Your Juice in the Hood"で描かれた状況の人種を逆転させたものとも言えるし、「表面では平等を説いている者も、黒人と接触するのは避けたがる」という1967年の映画『招かれざる客』のパターンにも通じるし。
それにしても。
いま不思議に思うのは、「金属バットのようなアホが、こんな笑い――意図の判断に困る――にどうやって辿り着いたのだろう?」ということ。
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繰り返すが、「差別しているアホを笑う」ために考えうる最善の策は、表現者自身が差別者を演じて、その愚かしさを世に突きつけること。
だが、その「差別者を演じること」すら糾弾されるケースが増えているのではないか。
本人が本人として、ではなく仮想のコント内で作られた仮想の人物の言動、であっても責められるなら、他の創作物にも波及する危険性すらある。
嗚呼。
わたしの危惧は「フィクションや笑いで差別を叩きのめすことを放棄するのは、むしろ差別が溢れる現実をシュガーコーティングすることに繋がるのでは?」というものだ。
「東京公演で指摘があったのは、地獄を描く場面。外国人同士がいがみ合うなかで、中国人と推察される人が疫病を広めたなどとののしられ、ネットでは"差別だ"とする声が相次いでいた」と報じられた、市川海老蔵の『KABUKU』はどうだろう?
もちろん、わたしが「新作歌舞伎」の実物を見ているわけがないから、記事から読み取れることから判断するしかないが……これは現実という名のディストピアを地獄という形で表現した秀逸なものではないか?
「疫病を広めたと罵倒されることもなく、みんな仲良しな地獄」が描かれるとしたら、それこそディズニーの『南部の唄』並みの欺瞞だと思うが。
昨年の今ごろ話題になった「ひろしまタイムライン」についても。「1945年にツイッターがあったら」という設定で展開されたもので、歴史改変SFが不人気な日本では珍しい試みだ。
当時13歳、広島の中学1年生・新井俊一郎 aka シュン(@nhk_1945shun)というキャラクターに注目しよう。「元気いっぱい! "米英撃滅!"が口癖の軍国少年」という設定だけでも、サティリカルな期待が高まるのだが……。
特に非難されたのは、8月15日以降のどこかで投稿された「朝鮮人だ!! 大阪駅で戦勝国となった朝鮮人の群衆が、列車に乗り込んでくる!」というツイート。
わたしからすると、これも逸品なのだ。宗主国の立場から滑り落ちたばかりの日本、その小国民の内心の葛藤や捨てきれない傲慢さが表現されているという意味で。
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ここで皆さんに教えておきたいのは、ポーの法則(Poe's law)である。
世の中では、往々にして「パロディ」が「本気の主張」と誤解される。特に、書き手が「これは皮肉である」という意図を示しにくい文字言語――そこには声の抑揚やボディランゲージがない――では区別が難しい……と説くものだ。
この「ポーの法則」には、アーサー・C・クラーク・リミックスというものまで存在する。
曰く「十分に発達したトロール(愉快犯的な荒らし)は本物の狂信者(kook)と区別がつかない」。原文では"Any sufficiently advanced troll is indistinguishable from a genuine kook"である。
身に覚えがある人もいよう。
かくいうわたしも、2017年末のダウンタウン黒塗りの直後に「レイシストを引っかけたろ」という意図で「かつて白塗りにしていたエディ・マーフィに発言権はない!」などと書いていたら(記憶が怪しい)、良心的な人に諭されてしもた経験がある。
ここで思い出すのがビースティ・ボーイズだ。
彼らのキャリア初期を代表する大ヒット曲といえば1986年の"(You Gotta) Fight for Your Right (To Party!)"である。しかし……いかにもハードなパーティ野郎のアティテュード全開ソングに聞こえるこれ、実はアイロニーであり、サタイアであり、パロディだった。標的となっていたのはモトリー・クルーの"Smokin' in the Boys Room"あたり。彼らとそのファンに向けて、「単なる能天気なパーティ好きのくせに、それでアティテュード気取りとは片腹痛いわ!」くらいのつもりで作った曲……なのに、当の能天気なパーティ好きたちに愛されるという事態に! このことはビースティ・ボーイズをひどく困惑させたという。
ポーの法則、ここに極まれり。
何年か後、90年代前半だったか。
メタル・バンド、スキッド・ロウは、この"(You Gotta) Fight for Your Right (To Party!)"をコンサート開幕前の定番BGMとしていた。「ハードなパーティ野郎のアティテュード全開ソング」と信じていたのか、それとも、モトリー先輩へのあてこすりと知った上での意趣返しだったか。
ノリノリになっているお客さんたちも含めて、わたしには前者と思えた。が、スキッド・ロウの真意が実は後者とすれば……。
ポーの法則の上塗りにしてダブルパンチなヴェンデッタ、お見事というしかない。