丸屋九兵衛

第55回:物件探しの途上にて、意図せずして『東京23区×格差と階級』を体験したこと

オタク的カテゴリーから学術的分野までカバーする才人にして怪人・丸屋九兵衛が、日々流れる世界中のニュースから注目トピックを取り上げ、独自の切り口で解説。人種問題から宗教、音楽、歴史学までジャンルの境界をなぎ倒し、多様化する世界を読むための補助線を引くのだ。

俺は毎日のように居場所を変える
一ヶ所に長居すると、人々が俺に絡み始めるから
奴らにがんじからめにされないよう
俺は彷徨い続けるのだ
ストーン・フリー! 生きたいように生きる
ストーン・フリー! 長居はできない

 上記はジミ・ヘンドリックスの"Stone Free"の歌詞を勝手に超訳したものであって、わたしの心情吐露ではない。
 しかし、長いこと一ヶ所に住んでいるとだな。当初は遠巻きに観察するだけだった人々もわたしに慣れてきて、近所づきあいが始まり、それが辛くなってくることもしばしば。やがて、そんな環境に人生のあれこれを搦め捕られる気がして、「このままではいかん」と思えるあたりはヘンドリックス的感性と同じである。そこでわたしも、「ここを出よう」と思ったのだ。ジミと同じように。
 今回は、そんな私が引っ越し先の物件を求めて行脚するうちに発見・体感した東京23区内の格差について、である。

※ちなみに「ストーン・フリー」とはグルテンフリーとかシュガーフリーのような「……が全く含まれていない」の意味ではなく、「めっちゃフリー」の意味
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「北区に帰ろう」と思った。
 そもそも、いま板橋区に住んでいるのも「北区を目標に物件を探していたらやや西方にずれただけのこと」とも言える。

 なぜ北区なのか?
 もちろん王子稲荷の存在は大きい。
 かつて、東伏見(東京都西東京市)出身のいんちき番長がわたしを「本店のかた」と呼んだように、丸屋一族のルーツは伏見である。
 伏見稲荷は全国の稲荷の総本山であり、キツネ版ヴァティカン、偶像崇拝版メッカのような場所だ。それに対して、王子稲荷は東日本・稲荷界の頂点に立つ神社である。伏見にそうそう帰れないわたしが王子の近くに住みたがる心情は、皆さんにも理解できよう。神社業界内のヒエラルキーをどう考えるかはともかくとして。

 それに加えて北区は、(実は!)小学生時代の一時期を過ごした土地でもある。その学校は少子化のあおりを受けて廃校となっているが。
 ところが。そんな北区にある一物件を紹介してくれた不動産会社・担当氏の話を聞いて、わたしは驚愕した。
「ハイクラスな住宅街として人気で地価が高騰した北区の中では、かなりオトクな物件です」
 ええっ! WTF!

 なにかと「ゲットー」を語りたがる日本人は嫌いだし、「ゲットー出身」を名乗る日本人はもっと嫌いだし、「大田区●●●●●●●●」は勘違いも華々しいと思う。
 そもそも日本に正真正銘のゲットーがあるか? しかし、この国にもワーキングクラス居住区というものは存在する。幼少のみぎり、わたしが住んでいた北区滝野川のあたりは、そういう地域だ。いま振り返ると。
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 母との会話。

わたし「滝野川時代の我々の生活な。上流・中流・下流でゆうたら、どこに位置するやろ?」
母「文句なしに下流やな」
わたし「同感! では、下流の中ではどのランクやろ? 上? 中? 下?」
母「難しいが中くらいちゃうか」
わたし「ほな、下の中やな。9段階評価でゆうたら下から2番目や」
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 そんな我々が住んでいた北区がハイクラスですと?!
「はい、滝野川はグレードが高いですし、王子も人気です」
 いや、そやから、わたしが知る限り滝野川はワーキングクラスのネイバーフッドですがな。

 一方の王子は地名自体がプリンスだし、一見すると玉子だし、なんだかプリティな印象があるのは理解できる。しかし、そんな王子は名前にふさわしい開花を見せていないような。
 工夫すればショッピングの一大拠点になりそうな駅前のビルに、ボーリング場とバッティングセンターとガチャガチャ空間と東武ストアとマクドと100円ショップくらいしか入っていないのだ。北千住なみの繁栄を目指せとは言わないが、せめて大塚駅のアトレヴィくらいの充実を見せてくれないものだろうか。
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 そんな王子駅前の商環境はともかく。
 滝野川や王子がハイクラスですと?
 衝撃から回復し、よくよく北区の家賃相場を見ると……確かにわたしの予想をかなり上回るケースが多々。これは一つのジェントリフィケーションではないか?

 ジェントリフィケーション(gentrification)とは、あれだ。
 低所得層が住む地区、公営住宅があるエリアを想像されたい。例えばジェイ・Zが育ったマーシー・プロジェクトがあるブルックリンを例にとろう。そんな地域に「ブルックリン?! ジェイ・Zの出身地だよね、クール!」と浮かれた白人たちが引っ越してくるとする。それに連れて家賃相場が上昇し、それまで住んでいた黒人たち――ブルックリンをクールな街たらしめていた人々――が出て行かざるを得なくなる……というものだ。
 ニューヨークのブラックやラティーノが住む一帯にやってきて悪意もなしに地上げしてしまう小金持ちの白人たちを邪悪な吸血鬼軍団に置き換え、ネイバーフッドを脅かすジェントリフィケーション現象をコミカルなアクションホラーとして戯画化して見せたのがNetflixの『ヴァンパイアvsザ・ブロンクス』だ。同じくNetflixには、ロサンゼルスでタコス・ショップを営むメキシコ系のファミリー(gente)が、ジェントリフィケーションに伴って生じた立ち退き危機と戦うドラマ『Gentefied/ヘンテファイド』もある。

 以上のアレコレが一瞬で駆け巡った我が脳内。もっとも丸屋家でいう「親方日の丸系」、つまり公団・公社の流れをくむURやJKKの団地は北区各地に健在なのだが。
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 そんなことを考えながら歩く帰路の途中、商店街の中の本屋が目に止まった。普段なら素通りするようなポップな書店だが、なぜか入ってみる気になる。
 店内では、奥の棚に面出しされた本がわたしを呼んでいた。

 そのオビ(事実上、表紙として機能している)には「階級による対立と地域間の対立が重なり、深刻化する――」とある。文字がかぶさっているのは23区の地図。それぞれの区がより細かく区切られ、赤〜オレンジ〜黄色〜黄緑〜緑〜深緑に塗り分けられている。図の凡例を読み解くと、最高クラスの高給取りが多く住む一帯が赤、低所得層ネイバーフッドが深緑のようだ。

 それが橋本健二の『東京23区×格差と階級』という本だった。
 東京の地形的特徴、江戸時代から続く「山の手と下町」史、人々の心にある学歴主義、山田洋次映画で描かれたセクシズム、「専門職・管理職 vs マニュアル職」という構図。都心に住まうミドルクラス(小金持ち)市民には「格差の存在を認めず、所得再分配に反対する、新自由主義的傾向」があることを看破し、経済格差で分断され政治的にも対立する東京23区を描き出す、鋭い名著である。

 同書の口絵パート、その最後には「東京23区の1人あたり課税対象所得額の推移」という折れ線グラフがある。要は、金持ち区&貧乏人区ランキングの移り変わりだ(が、この40年間、さほど変化していない)。
 下位、つまり貧乏区から順番に書くと、足立区、葛飾区、江戸川区、荒川区、板橋区、北区、となる。あとは、墨田区、練馬区、江東区、台東区……と続くが、肝心なのはわたしと縁が深い荒川区、板橋区、北区のランキングだ。下から4位、5位、6位である。わたしと母の「9段階評価」をそのまま23区に当てはめるのは難しい(そもそも23は9で割り切れない)が、「下から4位、5位、6位」であれば、母とわたしが言う「下の中」「9段階評価で下から2番目」にかなり近いと思うのだ。
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 わたしが次に目をつけたマンションについて書こう。

 とても良心的な価格で面積は広め、高層階でバルコニーも広い物件。やや天井は低いが、全体として好条件というほかない。内覧の後、ほとんどそこに決めかけていたそんな時、不動産会社の担当氏が言った。「今の内に重要事項としてお伝えせねばなりません。実は近所の工場から匂いがするという話がありまして。それで引っ越しを断念されたお客様も過去にいらっしゃいます。なので丸屋さんも気にされるかもしれません」と。

 この新たな情報を受け、わたしは足を使って調査することにした。
 翌日夕方から同マンションの近くを歩いてみる。ただし、その日の風は北東から南西に吹いていた。物件は東、工場は西だから、匂いはマンション方面に届かない。そんな鼻が使えない状況であれば耳を使おう。マンション周囲を歩いている現地住民の皆さんをつかまえて、話を聞いてみるのである(以下、年齢は推測)。

情報提供者①&② 70代夫婦。件のマンションに20年居住、理事長の経験もあるという。現在は東隣のマンションに住む。「件のマンションは問題ない。西隣の都営住宅までは匂うね」

 というわけで、ここからはその都営住宅のみなさんに集中して話を聞く。
③ 60代女性「時おりクサヤのような匂いがします」
④ 70代女性「気にならない。このあたりはオススメよ。(都営住宅は抽選制なので)当たるといいわね!」
⑤ 30代男性「自分は昼間、働きに行っているので、その間のことはわからない。でも、匂いが気になるのは午前中の方が多い気がします」
⑥ 80代男性「雨が降る前の日は匂うかな」
⑦ 20代男性、自転車で通りかかった警官。「介護施設の前を通るたびに"匂うな"と思います」

 気になったのは⑤(30代男性)の「午前中が匂う」という証言だ。そこで翌日は、午前中に都営住宅での聞き込みを開始する。好都合(?)にも風は北西から南東へと吹いている。
⑧&⑨ 30代夫婦「工場からの匂いは、この近辺だけでなく、●丁目全体の問題ですね」
⑩ 30代女性「この都営住宅、昔は小学校だったんですよ。私の母校です。その頃から匂いがしてました」

 ここで、より工場に近い一角でも聞き込みを。
⑪ 10代男性(高校生)「確かに、このあたりを通ると匂いますね」
⑫ 60代男性。ヤクザっぽい外見だが、どことなく人の良さが感じられたので話しかけてみた。なんと工場の隣に住んでいる。「ウチなんて、窓も開けられないよ! お兄さん、実はね、この工場の倉庫は屋根に穴が空いてるんだ。だから匂うんだ」
 都営住宅に戻って、その庭で。
⑬&⑭ 女子小学生二人「学校の教室でも匂いがします!」「えっ、匂いなんてしないよ」「●●ちゃんの席は廊下側だから! 私は窓側の席に座ってるから匂いがわかるの」

 というわけで総勢14名の協力者からコメントを集めつつ、時にマスクから鼻を出して匂いを確認して歩いた2日間。両日を合計しても数時間でしかないが、それでも嗅覚にとって強烈な体験だった。
 結果、その匂いがトラウマになってしまい、例のマンションは諦めたわたしなのだ……。
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 高度成長期や公害の時代を過ぎても、厄介な施設はやはり周縁部に押し付けられる。それが東京であり、日本であり、ひいては世界のルール(That's the Way of the World)なのかもしれない。

 

 ところが! 同地区の町おこし的な産業パンフレットにおいて、その工場は「環境に配慮」「自然派」「サステイナブル」等と形容されている。物は言いようやな〜。

 それにしても。日が落ちてから見知らぬ者に話しかけられて「抽選に当たるといいわね!」と言ってくれた70代女性といい、昼間から見知らぬ中年男性の調査に屈託なく協力する小学生といい。さすがはワーキングクラスの街、なのである。
 こういった人たちがマイ・ピープル。だからこそ、ここに引っ越せなかった自分が口惜しい。
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 わたしが東京で最も長く過ごしたのは荒川区だ。
 最終的には隅田川に近いあたり、通称「國松長官エリア」付近に引っ越したが、当初はもっとずっと下町ライクな土地に住んでいた。詳しく書くと、都電荒川線の三ノ輪橋駅に直結したアーケード商店街「ジョイフル三ノ輪」と、JR常磐線の三河島駅の脇から伸びるコリアン・ストリート、その二つに挟まれた地域だ。
 そういうところに住んでいると、よそ者に対して敏感になる。ジョイフル三ノ輪を歩く時にリュックサックを背負っているand/orカメラを持っている人々は基本的によそ者だし、そうでなくとも挙動からわかるものだ。

 先に挙げた『東京23区×格差と階級』にこんな一節がある。

エッセイストで雑誌『谷中・根津・千駄木』の編集者だった森まゆみは、本来は下町とはいえない谷中や根津、千駄木のメディアでの取り上げ方について、「安上がりの"下町ブームもの"が多すぎる」「取材に同行するとヤラセばかり」と批判し、「下町の人情」とされるものも、「実は集住と貧乏によるやむにやまれぬ方策なのであって、その歴史性と切り離しては考えられない」としていた。また小林信彦は、「下町が素晴らしいところのように語られるようになったのは1980年以降」であり、1960年代には「"笑うべきアナクロニズム"の土地であり、隅田川が発する公害のために、土地の人は窓をしめて生活しなければならなかった」と書いた。
そもそもこうした下町ブームは、あくまで観光の場所としてのものであって、住む場所としての評価が伴っていたわけではない。だから葛飾区を例にとると、1985年に41.5万人だった人口は、2000年でも42.0万人ともほとんど増えていない。その後は空き地や工場跡地にマンションが建つなどして増加するようになったが……。

 いわば"美化されたアナクロニズムの土地"としての我が街に注がれる、根拠なき賞賛に満ちた微笑。もちろん当方はそれに慣れきっているが、そうした慣れが感度の鈍化を意味するわけではない。
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 その『東京23区×格差と階級』で、局地的ジェントリフィケーションの例として説明されていたものがある。「万緑叢中紅二、三点」と申しましょうか。ほぼ全域が緑で低収入気味の区の中に、突出して赤い高収入エリアがいくつか見られるのだ。工場跡地などの再開発地域に建設された高層マンション群に高給取り軍団が集中することから生じる現象で、荒川区には2ヶ所ある。
 まずは南千住駅の東側。隅田川が大きく蛇行したあたり、紡績工場の跡地に「東京フロンティアシティ」等のマンションが立ち並んでいる。2007年にできた「東京フロンティアシティ」は、ある不動産業者に言わせると「医者が住む家」であり、荒川区の年収特異点だろう。
 次に日暮里駅前。「老朽建築物の密集ケイオス」の代表格のように語られてきた一帯を再開発したここには、サンマークシティ日暮里という高層ビル3本がある。地上40階建てで153m、荒川区内で最も高いステーションガーデンタワー、そしてステーションプラザタワー(36階)、ステーションポートタワー(25階)。この3棟が、アッパーミドルクラスを引きつけ、荒川区における第二の年収特異点を作っていると覚しい。こちらは2008年築である。
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 今回、ああでもないこうでもないと物件探しする中でわたしがとても興味を覚えたのは、不動産サイトに寄せられるコメントの素晴らしさである。荒川区内に局地的ジェントリフィケーションを引き起こす、その手の金持ちマンションの一つについて、元・居住者という人がこんなことを書いていた。

警察からの不審者情報とか荒川区の他の地域に比べ断然に治安はいいと思います。
ファミリー世代が多いので子供が小さくても安心できます。
個人的な感覚としては共働きの子育て世代が多く、住んでいる方達もある程度年収のある方達だと思うため、特別変な人は見た事がありません。

 ワーキングクラスのネイバーフッドをジェントリファイする側であるミドルクラスの気高さと寛大さに心打たれる。
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 ここで紹介したいのが2003年の映画『ヒップホップ・プレジデント』こと"Head of State"。ウィル・スミスに殴られたことで日本における知名度が一瞬にして上昇したクリス・ロックの主演・脚本・監督作だ。

 主人公は、自分が生まれ育った地元ワシントンDCの黒人街を「ネズミの巣」と呼んだ役人(白人)に向かって言う。
「ここは俺のネイバーフッドだ。俺は初めての自転車を、そこで(と指をさして)盗まれた。俺の父も自転車をそこで盗まれた。もし息子が生まれたら、この街で育つ幸運を彼にも祈りたい」