2020年の年始から今までを振り返ってみよう。
君の周りで、どれほどの人数が倒れた?
わたしの知人・友人では、「いまコロナで入院してます」と元気に電話してきた北海道の男と、「息子がコロナで苦しそうなので救急車を呼びました」と知らせてきた東京の男がいる。
どちらもここ数年は会っていないし、それどころか両名のその後の消息すら聞いていない。特に本人が入院したケースである北海道の男に関しては心配だ。Eメールを返してこないのだから。ただ、わたしがインスタグラムでアップした写真には「LIKE」をやたらつけてくるので、まあ元気なのだろう。
あとはサッシャか。「共に仕事したことがある」という意味では白鳥久美子(たんぽぽ)もいる……が、連絡先を知らないので知人ワクには入らないな。
でもわたしには、友人でもなく、知人でもなく、仕事仲間でもないが、対面して会話した人々がたくさんいる。音楽雑誌の編集兼執筆として働いた時期が長いわたしは、取材を通じて多くのアーティストたちと会う機会があったから。
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例えば、スティーヴィー・ワンダーやクインシー・ジョーンズ、ベイビーフェイスにアース・ウィンド&ファイアー。
しかし、わたしが取材前からロールモデルとして尊敬してきた上に、取材を通じて「人生の師」と見なすようになったのは、先に挙げた超絶大物たちではない。
ブーヤー・トライブである。
そして何よりも、ヒップホップ・ヒストリーのごく初期たる1990年という時点で大きな足跡を残した、太平洋諸島系&アジア系アーティストの草分け。米エンタテインメント界で多様性が語られるようになるずっと前からマイノリティの存在感を発揮した偉大なグループだ。
そんなブーヤー・トライブのリード・ラッパーであるギャンクスタ・リッド(Ganxsta Ridd)ことPaul Devouxは2020年12月に、コロナウイルスに起因する腎不全により52歳の若さで亡くなったのである。
ああああ。
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こんな話で始めたのは理由がある。それ自体は、コロナと関係なく。
20年近く前、憧れのブーヤー・トライブに初めて対面したわたし。そのインタビューの際に教えられたことは、今にして思えば、多様化が当たり前となった現代を生きるための知恵なのだ。
その知恵とは「ゾーニング」である。
さて、ブーヤー・トライブことデヴォー兄弟の本拠地はロサンゼルス近郊のカーソン市。近所には黒人もいればメキシカンもいる。
さて、ここからは心して読んで欲しいのだが……
ブーヤーの面々は友人のブラック・ピープルをニガ(nigga)と呼んでいたという。
語尾がaであれerであれ、「Nワード」と総称される、その言葉について。
もともとは白人が黒人に対して使う侮蔑語だったニガー(nigger)を、アフリカン・アメリカンはポジティヴ方面に180度曲げ、同胞どうしが使う親愛の情に満ちた呼びかけ"nigga"を生み出した。彼らには、数百年にわたる奴隷生活で培われた独自のクリエイティヴィティがある。
白人が食べない臓物や残飯で驚異の大逆転を演出したソウルフードから、楽器がない環境で録音物をバックに音楽を作り出すヒップホップまで、「そこにある材料で何とかする」ことからスタートする創意工夫。英語だって本来は彼らのものではなく、主人たる白人から与えられ強制された言語だが、それを使って白人が羨む自由闊達な表現体系を作り上げた。それが黒人英語であり、「Nワード」使用も彼らのクリエイティヴィティの証と言える。
しかし、これは他民族、非黒人が使ってはならない言葉のはずだ。
1998年の映画『ラッシュアワー』を思い出してくれ。クリス・タッカーに「俺がやる通りにしろ」と言われて、彼が言ったそのままのセリフ"What's up, my nigga"を口にしたジャッキー・チェンは、黒人客ばかりのバーで半殺しの目に遭いそうだったではないか。
それを使えるブーヤー・トライブは、あくまで例外の中の例外。つまり親しい黒人たちからリスペクトされ、同じストリートに集う仲間として認められていたのだろう。
「ただし」とブーヤーは続けた。
「俺たちは曲のリリックでその言葉を使ったことがない。"非黒人がNワードを使うのは普通のこと"という誤解を広めるわけにはいかないからだ」。
あくまで、「ゾーン内に留める」ということ。
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ここでようやく、話題は「日サロ行きすぎ」発言に行き着く。
その事件自体が起こったのはずいぶんと前、なんと4月11日のこと。
北海道日本ハムファイターズの選手たちが試合前、ベンチ前に集まって気合を入れる円陣を組む様子を映した動画。音頭をとるのは、コンゴ出身の父を持つ万波中正(まんなみ・ちゅうせい)選手だ。
「全員で勝ちにいきましょう!」と万波選手が言った後に、誰かが「日サロ(日焼けサロン)行きすぎだろ、お前」と発言しているのが聞こえる。
直後に別の声が「それはまずいですよ」「その発言」と言っていることが救いではあるのだが。
これが浮上したのは8月、同球団の中田翔選手がチームメイトに暴行を加えるという事件が起こったため。「チームのムードを伝えるもの」として注目されるに至ったのだ。
黒人でもある日本人の肌の色の濃さを、他人種の後天的な日焼けと敢えて混同すること。この非科学千万な発想はAマッソの「大坂なおみに必要なものは漂白剤。あの人日焼けしすぎやろ!」に近いといえば近いが、大きな差異もある。
こんな不祥事でもない限り大坂なおみとは接点がなかったであろうAマッソと違い、万波選手に「日サロ行きすぎだろ」と言ったのは同チームの先輩選手なのだ。
そのことが事態をさらに悪化させているのも事実。「レイシズムとパワーハラスメントが合体した最悪の差別」と見なされるのも、無理からぬところではある。
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だが、人間万事ケースバイケース。
所変われば品変わるし、個人も民族もそれぞれに事情があり、「何が許されて何が許されないのか」の基準は一様ではない。
例えば、「ブラック・パワー」なら言ってもいいが、「ホワイト・パワー」と発言すると白人至上主義者と見なされるように。
民族を肌の色で呼ぶことの可否も。ホワイトならまず問題なく、ブラックでもさほど問題とはならないが、今どき「イエロー」や「レッド」を使うと、レイシストと見なされること間違いなし!
人間万事ケースバイケースの例として、2003年の映画『The Hebrew Hammer』を思い出そう。70年代の黒人ヒーローのごとき活躍を見せるユダヤ系アメリカ人私立探偵「ヘブライの鉄槌(ヘブリュー・ハマー)」とその盟友モハメド・アリ・ポーラ・アブドゥール・ラヒーム(黒人)は互いに差別語で呼び合う。ヘブリュー・ハマーはモハメドに"My main nigga"と呼びかけ、モハメドはそれに"My main kike"と答えるのだ(Kike=ユダヤ人に対する蔑称)。あくまで、親愛の情を込めて。
だから。
もし、仮に、万が一、百歩譲って、「日サロ行きすぎ」と発言したファイターズの先輩選手が万波選手と超蜜月関係にあり、それを優しく包み込むようなムードがチームに存在するとしたら……ベンチ前というゾーンにおける件の発言自体は許容されてしかるべきだろう。
その場合、北海道日本ハムファイターズの問題は、それを全世界に見える形で発信してしまったことにある。ゾーンに留めるべきものを。
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2019年1月、ダウンタウンの松本人志が指原莉乃に向かって言った「そこは、お得意の体を使って何とかするとか」。この界隈で量産される暴言の中でも、やはり忘れがたいものだ。
よりによって、『ザ・ボーイズ』のスターライトの一件にも通じる新潟の惨事に絡めて、明るく枕営業を語るとは。
1週間後、松本自身はその発言を振り返って、「炎上で得られるものもあるし、こういう時に消火器をもってきてくれる人もいる。指原もそうだし、高須先生とか(三浦)瑠麗さんも軽く水をかけてくれた」とコメント。さらに「それなりに親しくても、テレビに出るときはもうちょっと堅苦しく喋らなあかん世の中になってきたのかな」とも語ったという。
……松本人志に高須克弥に三浦瑠麗? それはちょっとした巣窟ではないか。
そんなところに出入りする指原莉乃という人のことはよく知らない。だが、多少見聞きしたところから判断するに、田中みな実と同類に思える。体制側に都合が良い発言をする習慣が身についた御用聞きタレント、というか。
そんな指原と松本。「それなりに親しくても」と松本自身が発言し、フジテレビ社長も「出演者同士の(親しい)関係性から来る言葉」と形容したように、きっと仲が良いのだろう。オフェンシヴな発言すら受け流せるほどに。
しかし、松本が理解すべきは、「もはやテレビはお前たちの私的空間ではない」ということだ。
ずっと昔から、そうであるべきだったのだが。
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死姦、幼児性愛、近親相姦。どんな妄想も脳内に留めておく分には罰せられない。
同様に、真に私的で個人的な空間では何を言ってもいい。
本当にツーカーで、阿吽の呼吸で、気心が知れた仲間しかいないような密室。そんなゾーンでは無礼講でもよかろう。それが北海道日本ハムファイターズの万波選手と先輩選手であれ、松本人志と指原莉乃であれ、「親しき仲には礼儀なし」レベルで仲が良いなら、ジョークとして不適切な発言があっても、我々がどうこういうべきものでもない。
だが、それは徹頭徹尾、閉じられた空間、彼らだけのゾーンに留めておかねばならぬものなのだ。
近所の黒人たちからNワード呼ばわりを許されていても、それをラップに乗せて発信することを良しとしなかったブーヤー・トライブ。その知恵に今こそ学ぶべきではないか、と思う。