意外な本が、ひっそりと出版されていて驚かされることがあります。よくもまあこんな本を出したなあ、誰が買うと見込んでいるんだろう、と呟きたくなるような。
そんな書物です、『トウモロコシの種蒔き』(柏艪舎)は。シャーウッド・アンダーソン(1876~1941)の単行本未収録短篇集が今頃出るとはねえ。あの「グロテスクなものについての書」という前書きのついた『ワインズバーグ・オハイオ』の作者の一冊です。
当然のことながら、この本もまた「グロテスクなものについての書」であることを期待するわけです。そして読んでみたら、まさに期待通りでした。微妙な違和感、どこか身につまされるような気持の悪さと居心地の悪さ。そして小説と呼ぶには不器用すぎる文体(マッカラーズやオコナーだったらもっと上手く書いたに違いない)が、かえってそれを書かずにはいられなかった切迫感を伝えてくる。
この本を読了したときに立ち上がってくるのは、本来ならば人間の精神にまつわる一種の普遍性である筈です。時代も国籍も問わず透けて見えてくる本質的なもの。でも実際には、そのように抽象化されたものの気配は一切無い。個別性、特殊性、いやそれを越えて奇形の領域に達したタマシイのありようを生々しく感じさせるばかりで、結局のところ途方もない孤独感と「もはや取り返しのつかない気分」しか読者は受け取ることが出来ない。
普遍性なんて小賢しいものに決して至らないその身も蓋もない具体性にこそ、このささやかな(サイズが、ね)本の価値があるように思われたのでした。
さてアンダーソンの本と一緒に購入したのは、ヴィヴィアン・マイヤー(1926~2009)の写真集『Vivian Maier――A Photographer Found』(Harper Design)です。こっちは物理的にビッグです。とにかく重い。たぶん3キロ近くある。おまけに判型は27センチ×32.5センチもある。持て余しつつ膝の上に載せて眺めていたら、足が疲れてくる。洋書特有の匂いに反応したのでしょう、飼い猫が開いてある頁の上に何度でも跳び乗ってきて往生しました。
そもそもつい先日まで、わたしはヴィヴィアン・マイヤーなんて全然知らなかった。ところが『タブーこそを撃て! 原一男と疾走する映画たち』という新刊を読んでいたら、『ヴィビアン・マイヤーを探して』というドキュメンタリー映画(監督ジョン・マルーフ、チャーリー・シスケル、2013)について言及されていました。触発されてその映画のDVDを観て彼女のことを知り、関心を持ったのでした。
シカゴで40年もナニー(乳母)をしていた女性がすなわちヴィヴィアン・マイヤーで、一人暮らしでほとんど友人もないまま貧しく孤独に生涯を終えた。ある種の変人だったようで、超然さと唐突さと意固地さとが奇妙な比率でブレンドされたような人柄だったらしい。やたらとモノを溜め込むクセがあり(ゴミ屋敷予備軍)、新聞で殺人事件の記事を読むのが大好きだった。性格には残忍な側面が備わっていた。
身寄りもないまま亡くなった後、15万枚以上(!)のネガ・フィルムが彼女の遺品から発見されました。ヴィヴィアンは主に二眼レフカメラ(ローライフレックス)でいつも写真を撮っていましたが、これほどの量を撮っているとは誰も思っていませんでした。彼女は生前、一枚も世間に写真を発表せず、だからこれほど質の高い作品であることを知っている人もいませんでした。
死後、オークションでたまたまネガを入手した青年がSNSにプリントを公開したことから、一気に注目を浴び絶讃される結果になりました。確かに彼女の作品は鑑賞者の心を鷲摑みにする。しかし被写体は主にストリートで顔を醜く歪めた市井の人々や障害者、ホームレス、壊れたモノや日常の文脈から外れた事物で、次第に写真を見ている側の精神が追い詰められてくる。ダイアン・アーバスの系譜ですね。
ヴィヴィアン自身、彼女の顔つきや言動から統合失調症に親和性のある内面を窺わせます。だが作品における構図の完璧さや好奇心のみずみずしさは、そんな推測を真っ向から否定してくる。アウトサイダー・アートとしては括れない。写真もそれを撮った本人も、さまざまな角度からこちらを翻弄してきます。
常々わたしは、人間には性善説も性悪説も当てはまらない、唯一当てはまるのは性グロテスク説であると(冗談半分に)信じてきました。その考えを、ここに挙げた2冊の本は再確認させてくれたように感じます。やはりねえ、と。力強い味方を得た気分です。
それにしてもこれら2冊といっぺんに対面し、おまけに猫といっしょに「グロテスクなもの」に耽溺出来た昨日の木曜日は、まさに充実の一日-―いや奇跡の一日だったな。