もうダメだ。生活、人間関係、すべてを捨てて、一回死んだことにして、誰もわたしを知らない静かなところに逃げ込みたい。そんなときにわたしは真っ先に西成を思い浮かべる。大阪市西成区。JR新今宮駅のホームに降り立つと、そこはかとなくしょんべんの香りが鼻につく。ちんちん電車沿いに通りを南下していくと、通称ドヤと呼ばれる簡易宿泊所が乱立している。一泊500円から高くても2000円ほど。外国人観光客も少しは混じっているが、主には日雇い労働者や生活保護受給者のおっさんたちが住まいにしている場所だ。わたしはライブで大阪に行くと、あえて好き好んでこのドヤに泊まることにしている。三畳一間の豚箱のような部屋でヤニ臭いせんべい布団に転がり天井を見上げていると、なんと天井にデカデカとマジックで「ゴミババア」という落書きがされていた。ああ、いいなあ。どうしようもなくなったらここに来て、ゴミババアになってしまえばいい。
『ルポ西成――七十八日間ドヤ街生活』國友公司著(彩図社)は著者自ら西成に住み、飯場やドヤで出会った人々との交流が描かれている。女子であるわたしはいくら西成が好きでも、ドヤに泊まって立ち飲み屋をまわることくらいまでしか出来ない。あいりんセンターに職を求めに行く事も出来ないし、飯場に入ることも出来ない。なのでこの本はわたしの知りたかった西成の内部事情が生き生き詳細に描かれているので楽しかった。飯場で働く人々は、シャブ中、強盗、窃盗、婦女暴行、殺人など前科者のオンパレード。かつてリンゼイ・アン・ホーカーさん殺害事件の市橋達也被告も潜伏していたことで有名だが、なんと著者が清掃員として働いていたドヤ、南海ホテルは実際市橋が宿泊していたらしい。著者は南海ホテルで働きながら、そこに暮らす一日中寝転んでテレビを見てはスーパー玉出の激安弁当を貪る生活保護受給者のおっさんたちを見ては、イーグルスのホテルカリフォルニアになぞらえて歌う。
ようこそホテル南海へ。南海ホテルにはたくさんの部屋があります。月十二万の生活保護の中から、四万ばかりの金を出せば、あなたはいつまでもここにいることができます。残ったわずかばかりの金でスーパー玉出の弁当を食べ、大好きなギャンブルもできます。他には何もする必要がありません。何もせず次の受給日までただ寝ているだけで構いません。でもその代わりに、あなたは死ぬまでこの南海ホテルから出ることはできません。
そう、一度西成の沼の底に零落してしまうと、人はもう二度とシャバには戻れない。
小説の中でもそうだ。『西成山王ホテル』黒岩重吾著(ちくま文庫)を読む。西成に辿り着き、この町に暮らす人は男も女も影が濃ゆい。血の繋がらない淫売の母を持つ足の悪い娘、薬に溺れるヤクザ親分の娘、まもなく売春防止法が施行される飛田遊郭で働く遊女、自己卑下ばかりするアルサロ勤めの女。みんなどうしようもない男と泥のような恋愛をし、幸せになれない。西成に辿り着いた者はみんな結界でも張られているかのようにこの町を出ない。出ることが出来ない。まだ若いのに、華やかな未来や夢を決して見ようとしない。そう、西成には浮ついた夢がない。だからわたしは安心する。叶うはずもない夢が溢れすぎている東京に暮らすわたしは、定期的に西成を訪れてはゴミババアになった自分を想像し、胸をなでおろすのだ。最後の砦、西成がいつまでも褪せることなく存在し続けてくれることを切に祈る。