重箱の隅から

医者の言葉、小説家(と批評家)の言葉①

 原因と言えば、原稿を書きながら必要な本を探すこと、とも言える。書架が上段と下段にわかれているスライド式本棚の下段の奥を探し、頭を持ちあげた瞬間、棚板の下にかなり強くぶつけてしまったのだ。
 本を探していて棚の上のほうから落ちてきた本の角で鼻の頭に小さな傷を作ったり、足の指を痛めたり、スライドする書棚と書棚の間に手をはさんだり、という、いかにも運動神経の鈍い者が負いそうなケガとは言えないちょっとした痛みは、大した分量ではないのに整理されていない本を探すたびに年中経験することなのだが、確かにあの時の痛みはおさまるのにいつもより時間がかかり、2カ月後に右半身に軽い痺れが断続的におき、MRIとCTスキャンの検査をして慢性硬膜下血腫という診断を受け、3月のはじめまで通院することになったのだった。
 慢性硬膜下血腫は、高齢の男性に多い疾患で、転倒で頭部をぶつける「軽微な頭部外傷」が原因、「歩行障害」や「認知症」の患者に多く見られ「年間発生頻度は人口10万人に対して1~2人」と脳神経外科疾患情報ページに書いてあるものだから、MRIの画像を撮ったメディカル・センターから慢性・・硬膜下血腫にもかかわらず、急患・・扱いで脳外科の診察を受けた高齢者である私は(後で考えてみれば)、当然認知症による歩行障害で転倒という思い込みのある医者からいろいろ問診されたわけで、どうも会話が噛みあわない。「どうしても手術をしたい・・・・・・・・・・・と言うのならするけれど・・・・・、やるまでもない症状だと私(一人称を先生・・と小学校風に言ったりする医者もいる)は思うから、投薬を続けて、定期的にCTで血腫の様子を見る、何かあった場合は電話を。もしもの時はすぐに手術という対応も可能」ということを伝えるだけなのに、傍点部分のような持ってまわった言い方を混(まじ)えるものだから、簡単な事実を医者と患者として了解するのに、不必要な軋みが生じる。ある種のタイプの医者特有の医学的というのか疑似科学主義めいているうえ、特有の何かをはっきりと言わない病状の説明を聞いて苛々していると、それだけは察したらしく、納得がいかないのだったらセカンド・オピニオンの医者に診てもらうこともできる、と言ったりするので、こちらがよほど医者に対して不信感をあらわにした表情をしていたのだろうか、という気がしてくるほどだった。3月のはじめの診察で「卒業・・ですね」と、少し前、アイドル・グループのメンバーがグループを定年退職する時に使われた言葉で治った・・・と告げられた時には、こちらも、有難うございます、とすんなり言えはしたけれど。
 11月からの3月までの通院の間に、新型コロナウイルスの感染がこれ程の規模になるとは、もちろん想像もつかなかったのだが、11月から通院して2月の定期的なCT検査に行った時は、横浜港に停泊中の大型クルーズ船で乗客乗員の10人に感染が確認された後だったが、それから2週間もたたない24日には、政府の専門家会議が「これから一~二週間が拡大に進むか収束できるかの瀬戸際」という見解を発表し、28日には北海道知事が道民に週末の外出自粛を要請したのだが、2月にはタクシー運転手の屋形船での新年会で感染者が出たのも、テレビのワイド・ショーレベルでの話題の一つで、後、4月10日には、天皇・皇后に流行中の感染症について進講することになる「新型コロナウイルス感染症対策専門家会議副座長を務める尾身茂・地域医療機能推進機構理事長」は、いかにも気の利かない、実直だからこそ表現力に欠けているのだと言わんばかりの拙い言葉づかいで、屋形船やライブハウスの、人々が密集した空間が感染を広める、と不器用な説明をし、現在の日本はどういう状況なのかという記者たちの質問に対して「ぎりぎり持ちこたえている状態」と答えたのだったが、昔から使われているこの病状の説明用語が、いったい、「持ちこたえている」の主体は誰というか何なのか、まったく訳がわからないのだ。
 現在ではどうか知らないが、昔、重症の病人について、そういう言い方をしていたし、「この山を持ちこたえてくれたら」といったような言い方を、60年以上前、実際にというわけではなく映画や芝居や小説の中で耳にしたことを思い出し、そこで医者と患者の家族たちとの間で取り沙汰されていた病気は、ガンとか心臓病とか生活習慣病とかではなく、感染症だったのかもしれないと思ったのだったが、後になって、ということは、3月28日、首相が記者会見で、水面下で実際は感染がもっと広がっているのではないかという質問に、そういうことはない、死者の数は多くないし、「現状の感染状況には「ぎりぎり持ちこたえている」と従来の見解を繰り返した。」(東京新聞4月3日)という記事を読んで、おそまきながら、爆発的な拡大にはなっていない、という意味だったのかと思ったのだが、「進講」を受けた「両陛下」が、現場で働く医療関係者へのねぎらいの言葉を繰り返し「国民が一丸とならなければならないのですね」と語ったと話す「新型コロナウイルス感染症対策専門家会議副座長を務める尾身茂・地域医療機能推進機構理事長」と、その長い肩書きを念入りに、つい書いてみたくなる人物が言いたかった「ぎりぎり持ちこたえている」は、現場でウイルスと闘う医療関係者たちの状況だったのかもしれないと思いあたったが、むろん、メディアの記者たち(と読者と視聴者)が知りたかったのは、「ぎりぎり持ちこたえている」といった、少し前に使われた言い方で言えばエモい・・・言い方ではなく、何がどうなっているのか、私たちはどうすればいいのかという明確な事実だろう。尾身茂は4月1日朝日新聞のインタビューに答えて「新型コロナウイルスが1年後に地球上から完全になくなっているとは考えにくい」と言い「いまできることは、みなが心を一つに、感染を広げない努力をすることだ」と語るのだが、私たちはいくらなんでも、「両陛下」のような素直さで「国民が一丸とならなければならないのですね」などと答えはしない。それに、上皇夫妻用語にも「国民が一丸となって」というナマな・・・言い方はなかったはずだから、これは戦前の医者を連想させる尾身的用語なのかもしれない。
「アエラ」の3月9日号の隔週連載コラム「eyes」で東浩紀はいちはやく(原稿執筆時点の2月26日)「猛威を振るっている」新型コロナウイルスの日本での感染者877人、韓国では1千人を超え、2月に入って25日には「市中感染が拡大しているとして」厚生労働省が声明を出し、26日に北海道が全公立小中学校の休校を決め、政府は国内の大きなイベント開催の自粛を要請した状況に触れ、さらにSNSを介して新型ウイルスについて、「恐怖やデマが急速に広がり、人々を世界中で不安に陥れている」と書いていたし、それより1カ月も後ではあるが、煽情的な経済小説の書き手である真山仁は朝日新聞の3月24日朝刊「Perspectives:視線」欄に「脆弱な危機管理 さらけ出した安倍政権」というタイトルで、「我々」が「世界恐慌が起きても驚かないところまで」、「追い詰められてい」て「国民生活には抑圧と不安が広がり、文明社会が溶融するのを誰も止められず」、未知のウイルスが「厄介な特徴」を持ち、「その結果、街を歩くだけで突然発症するという不気味さが、多くの人に恐怖を植え付け」「新型コロナ禍が、今後どのような展開を見せるのかは、もはや神のみぞ知る。」とエンタメ小説調・・・・・・・に書いている。
 同じ紙面にはタテ二段ヨコ三分の二程のスペースを使った安倍首相のコロナウイルスについての初めての記者会見時の写真が載っていて、そこに写っている首相を含めて、40人ほどのカメラマンや記者たちのうち5人がマスクを着用していて、それより何より、この写真の主役は首相の顔の前にでかでかと置かれたプロンプターだろう。NHKであれ民放であれ、テレビで首相の記者会見が中継される時にほぼ一瞬しか映し出されることのない、しかし、この棒読みをするためのペーパーがなくては首相は何かを語ることもできないらしいプロンプターは正面から見ると巨大なマスクのように首相の顔を覆っているように見える。
 首相が科学的根拠・・・・・のない独自の政治決断・・・・・・・を読みあげて全国休校要請をする3日前、東は小さなコラムのしめくくりの10行を「流行収束後のことも考えねばならない」と書きはじめる。オリンピックの開催が1年程度の延期と正式に決まったのは3月24日だから、新型コロナ禍をおどろおどろしく語る真山仁は、まだそれを知らなかったわけだが、知っていたら、この欄に付された記者の説明的ひき文句「「2020年東京五輪・パラリンピック」を前に(略)人々の生き方や価値観も変わりつつあるのではないでしょうか」という視線(パースペクティヴ)から書かれる文章にはさらに煽情的迫力が加わったのではないだろうかと思うのだが、東は知的な批評家特有の冷静に現実を見とおす視線(アイズ)で、早ばやと続ける。
「心配なのは東京五輪中止が囁(ささや)かれていることだ。」中止にともなって巨大な経済的損失があるばかりではなく「震災からの復興をアピール」するはずの五輪が「そもそも開催されない、その虚しさに日本人は耐えられるだろうか。虚無感が変な政治勢力の伸長につながらないよう、警戒したい。」
〈この項つづく〉