重箱の隅から

予言について③

 予言というものは、言うまでもないことなのだが人々の無知と忘れっぽさがあってこそ成立するものだろう。
 日本語では、と言うより辞書上の解釈では「予言」と「預言」は区別されていることを、恥ずかしいことに、、、、、、、、(と、本気で思っているわけではないが)つい先日はじめて知ったのだ。コロナ禍のおかげである。英語ではどちらもprophecyで区別されてはいないのに、「預」という「預金」という熟語に使われるのが一番知られている漢字を使用した「預言」は、私の使用している四種の辞書のどれもの語釈は「神」にかかわるもので、『漢字海』の語釈の「②神からあずけられたことばを人々に伝えること」が一番納得のゆく説明だと思われる(『集英社国語辞典』『日本語大辞典』では、ユダヤ・キリスト教のそれらのものに触れ、『大辞泉』は加えてムスリムのムハンマドの名を挙げているが、「神託」はギリシアのカサンドラにも与えられたのだし、様々な地域で「神のお告げ」を聞く者がいることは広く知られているところである)のだが、気にもとめることのなかった「預言」という漢字が目にとまったのは、新刊本の新聞広告の中で「〝生きづらい〟人々に預言的作家が贈る渾身作!」(星野智幸『だまされ屋さん』)というコピーを眼にしたからだった。「新手の詐欺か、救世主の到来か――。」というコピーも使われている小説に預言者、、、が登場するのは理解できるが、その小説の作者が預言的作家、、、、、というのは、「予言」と「預言」の違いを知った(つい何日か前にだが)現在の私には、いささか納得しにくい言葉づかいと言わざるを得ない。
 星野智幸は神託、、を受けたのかもしれないが、しかし、それを確かめるべく『だまされ屋さん』という小説を読む必要もあるまい。予言という言葉とイメージがどのようなニュアンスで――むろん、安易さを前提として――文芸方面において使用されるのかに興味があるだけなのだ。
 さて、人のいなくなった都市空間というか、「緊急事態宣言下のまち」は、いわば新世代のジャーナリズムの好奇心をきわめて自然に刺激するのかもしれず、私の狭い知見のスペースには、同じような発想で『東京人』(8月号)の特集「緊急事態宣言下のまち」で何人かの書き手たちが東京の町を散歩する報告、、、、、、を書く。写真集『新型コロナ――見えない恐怖が世界を変えた』(クレヴィス)はコロナ下における「世界50カ国の街と、人々の暮らしの変貌を、210点余の写真で一望する」のだが、それらの写真はテレビのワイド・ショーやニュース番組で一時期は毎日のように紹介されていた世界の映像と重なる既視感をにじませたおなじみの報道写真にすぎないのだが、ウィルスを見えない恐怖、、、、、、と言うのであれば、津波に押し流されて瓦礫となった廃墟と、はるかに上回る恐怖であろう放射能汚染にさらされてまったく人気のなくなった町――牛や駝鳥は取り残され、たとえば生協の雑誌に「放射能のせいで耳のないウサギが生まれた」というような記事が載ったりした恐怖、、――の映像、、、を、新聞やテレビの画像として何度も眼にした時から、まだ十年にもなっていないのだ。多分、予言的世界観に未来の展望を見る人々は、確かに見た(もちろん、映像、、にすぎないのだが)はずのことさえ、奇妙なことに忘れて未来の映像の予感、、、、、、、、にうつつを抜かしてしまうらしい。
 スクラップ・アンド・ビルド(壊しつつ建てる)の現場にかかわる建築家である鈴木了二はしかし福島のことを忘れてはいない。災厄のジャンルが違うかのように、無人の町を見ても原発の町を人々が思い出さない時、「今が福島の時と違うのは、起きている事態がどの程度のことか、参照項がないから世界中で誰もわからないこと」だと言うのだが(「ローカル/ソシアル/異端」『GAJAPAN65』’20年7―8月)、私たちはここで、映画批評の書き手でもある鈴木了二がどのように無人の町を見たかについて触れる前に、福島の無人の町の映像を思い出すことにしたい。
 無人の町と化した福島の双葉町のメイン・ストリートに、道路にかけわたされたアーチ状看板に「原子力明るい未来のエネルギー」という標語が記されている映像を何度も見たのだが、それによって喚起されたのはユダヤ人絶滅収容所の入口に掲げられた「労働は自由にする」という言葉ではなかっただろうか。アーチ状のものに書かれた標語――。
 さて、緊急事態宣言下、新宿の裏路地を歩いて写真を撮り文章を書いたミュージシャンの菊地成孔(持ち前の気取った調子の文章は引用しないが)は「平時の平日で、終電が終わってからの時間帯であれば、ほとんど同じ写真になるのではないかと思われるものしか撮れなかった。否定も肯定もなく、新宿はそこそこ元気であり、オルタナ戒厳令にも、オルタナ大喪の礼にもまったく見えなかった」(「平熱の繁華街。」『東京人』8月号)と’63年生まれの菊地は書いているのだが、’44年生まれの鈴木は、人がいなくなって初めてはっきり見えてきた東京、前景としての人の目立った動きや雰囲気が消えた時「どれくらいの存在感」があるのかと語る。「東京はかなり衰弱して見える。ちょっと目を覆うくらいで」原宿や渋谷、銀座も「人が一人もいなかったら、もうたまらない。舞台の背景以下」で「しかも、路地なんて、人がいなくて電気が消えて、本当に穴かジャングルかというところがあちこちに」あり、街中が「非常に高精度のサッシュで覆われ」「同じパターンでピカピカのグラスが並ぶ」様がそれぞれの建築の違いなどはすっ飛んで、当たり前のことだがみんな同じように見えるのだ、と言う。同じ頃、外出禁止令の出ていたイタリアのヴェネチアやミラノの市街から人気(ひとけ)の消えた様子がテレビで盛んに流れていたのを見て「この力の差は凄かった。完全に負けていると思った」と語る。もちろん、それは勝ち負けが決まるという勝負の問題ではなく、ただひたすら、日本の近・現代の都市というものが舞台の背景以下の貧しい安っぽさを見せつけて、、、、、いるということであり、ことに渋谷の再開発の「目も当てられ」なさに比べ、別になんの工夫もなくただ物珍しい無人の都市の異様さとコロナの恐怖をあおるテレビの映像として平板にとらえられたミラノやヴェネチアの町の無人の都市の風景はしかし、単純に凄い、、のだ。
 たとえばロベルト・ロッセリーニの『イタリア旅行』(’53)には、観光地として訪れる多数の人々が歩いているポンペイの無人の、、、はずの廃墟、、が、普通の都市の持つ迷路のような存在感で映し出されるのだが、そのわずか六年後に撮られたスタンリー・クレイマーの『渚にて』は’64年のある日、数カ月前に起こった第三次世界大戦のために南半球の一部を除いて人類の滅亡した地球に生き残った人々の見る無人のカリフォルニアの都市の映像が映画を見る者たちに衝撃を与えることが目論(もくろ)まれていたのだが、見る者には人気のない早朝のある特定の時間に都市を大規模に封鎖して、、、、撮った映像から想像力を働かせることを居心地悪く強制されている印象しか残らないことが、ふと思い出される。『渚にて』は近未来を舞台にした原作を持つ映画なのだが、その頃生物は殺すが建造物は破壊せず、そのままの形で残って利用できるという新しい様式、、、、、の原子(だか水素)爆弾の開発が、東西の核保有国でとりざたされていたのを覚えているのだが、『渚にて』の第三次世界大戦で使用された原子爆弾は、そういうタイプのものだったのかもしれない。
 飛行機でも列車でも夜間に到着した乗り物を降りて、都市の中心部に向かう高速道路で移動する時、私は世界中のどんな都市でも同じ、ゴダールのモノクロ映画『アルファヴィル』のまさしくそう呼ばれる眼に見えない鉄筋とコンクリートとガラスとサッシュと輝く照明の現代都市に向かっているという印象を持ってしまうのだが、しかし、都市とはどういう空間なのか。
 考えてみれば単なるジャーナリスティックな流行語の一つにすぎない言葉であるにもかかわらず、文化的存在と自認している男子(というか、性別を問わず男子的、、、な)は予言であれ預言であれ、知性というものは未来に賭けられていると信じているのだろう。予言の場合は自らの能力(や感性)、預言のほうは宗教的な神がかりになるべく選ばれた者の、自負というか見ようによっては狂信ということなのだから、迷信やまじないと同じでほとんど興味のない分野なのだが、未来を見ようとしていることは確かで、その意味では都市計画というものに似ている。
 コロナのパンデミックによってヨーロッパで最初に都市封鎖がおこなわれたのがイタリアの都市だったせいで、ロッセリーニを含めて何本かのイタリア映画を思い出すことになったのだが、それについて書く前に、テレビの画面に何度も映し出されたイタリアの都市部の広場を囲むようにして建てられた新旧の石造りを含めた高層住宅に住む人々が、同じ時間にテラスや窓辺で医療従事者に感謝と尊敬の気持ちを伝える拍手を送るという出来事に触れておきたい。拍手や歌声が広場を囲む建物の壁に反響して大きな重層的な音となり、よく言われることだが、西洋の都市における広場の持つ意味を改めて考えた者も少なくなかったはずである。
 しかるに、というオヤジっぽい言葉が思わず出てしまうのだが、医療従事者に感謝の意を表すためと言うより、それを名目に、日本の防衛大臣は何をしたか?
 首都の上空に爆音をたてて自衛隊の五機のブルー・インパルスを飛ばし、都下の市民たちは、無料(ただ)の航空ショー(オリンピックの開会式には飛んだであろう)を見せてもらった気になって、医療従事者ではなく、自衛隊のジェット機に拍手を送ったのだった。

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