大槻ケンヂ『新興宗教オモイデ教』は、10代の私が出会った本のひとつだ。ただ、今になって読み返すと、肌触りが変わって感じられた部分も少なくはない。いわゆる「毒電波」を彷彿とさせる、狂った超能力者たちによる組織的テロリズムを背景に「僕」の青春物語が展開される大筋だけでも、今日では容認すべきか詮議されかねないだろう。もはや危険な紋切型として有害視されそうな種々の生臭い描写も含めて、初刊行が1992年だったからこそ巷間に流通しえた小説なのかもしれない。とはいえ、かつての己がそこから引き出していた情緒も、私にはまだ思い出されもする。
いじめを受けていた結果、私と同じ言葉にさらされても、同じ暴力を受けても、私と同じ仕方では傷つかないであろう相手に、私の痛みや苦しみを理解してもらうにはどうしたらよいか、そもそもそんな事態はありうるのか、それがありえたとして、それだけで己の境遇なり己が属する社会なりこの世界なりがよく変わるとでもいうのか、などの物思いに取り憑かれていた思春期の私にとって、「音楽は地球をひとつにしても地球を燃やせやしない」と溢す扇動者の中間、「私を嫌う者のいない、傷つける者のいない町」を夢見た山師トー・コンエ、そして「ゾンビのゾン」、霊能者聖陽、なつみ、語り手の「僕」、そうした種々の傍迷惑な人物たちの凶暴な軌跡を記す物語には、唾棄や忌避だけでは済ませられない衝迫が感じられてもいた。大槻ケンヂ作詞『林檎もぎれビーム!』の一節がふと浮かぶ。「マニュアルではめてるだけかもよ/でもそれでも好きね?/合言葉を言って」。
『オモイデ教』にも含まれる音楽と暴力とユートピアと人間性の変容という主題を別様に紡いだ作品として、上田早夕里の短編集『夢見る葦笛』所収の表題作も私は思い出す。井上雅彦編のアンソロジー・異形コレクション第43巻『怪物團』(2009年)初出のこの話では、「人間の中にある凶暴性、暴力衝動」を破壊する周波数を含む歌声(ただし聴くと「癒された気分になる」)を発する怪物たちにより「美しく清らかな世界」が広がっていくことになる。バンドを引退したものの、働きながら作曲・合成音声ソフトで楽曲制作を続けている天海亜紀は、そんな怪物の歌に堪えがたさを覚える側の「人間」であり、怪物とその支援者が増えていく(怪物の細胞を植え付けられた人々は怪物に変態するし、そんな怪物の繁茂に加担する「サポートグループ」もあって、さらに人の手を介さない怪物同士での繁殖も起こっていく)中で、己の生き方を捉えなおすことになる。
怪物が奏でるのは、いわば「地球(人類)を燃やす」非暴力の音楽だ。作中で怪物の歌に魅せられ音楽活動を断念した人物は、それを「あらゆる暴力に対するささやかな抵抗」とも呼ぶ。もっとも、怪物は人為的につくられたらしいが、知性の有無はわからないし、人類を目の敵にするわけでもなく、たまたまその歌を聴いた人類の脳が破壊されるだけのようなのだが。いずれにせよ、怪物により人類の旧来の音楽制作は潰えていく。そんな風に描かれる作中の趨勢に私は、大槻ケンヂが『ステーシー』で展開した、単体でも自己増殖し、3つの眼と6つの指と超能力を持つ新人類を頂点とする、旧人類ほかの統治が成立するまでの過程を想起しもする。ともあれ、自らこそが怪物の音楽によって「矯正」されるべき存在なのだろうと認識しつつ、怪物側のつくる「調和」(を生きることを選んだ、自身にとって大切な相手である響子)と敵対するに至る亜紀の姿には、無謀な反発で破壊行為に過ぎないと評釈しきれなくなるような、ある切実を呼び起こされもする。
これらの小説は、かつての私が道徳的判断力を問われる極限状況に思いを馳せる際の、よすがともなっていた。自分をいじめてきた相手や、それで歪になってしまった自分自身を、この社会に存在すべきでない有害なものだからと断じて殺してはならないその理由を考えねばならない。そうした必要を覚える瞬間も、十数年前の私は経験していた。ふと思い出したが、それとおおむね同時期、TVドラマ『女王の教室』特別版で、教師の阿久津真矢(演:天海祐希)が生徒の宮内英二(演:森田直幸)の首を絞めながら、人が人を殺してはいけない理由を説いていた一幕があった。同番組の主題歌はEXILE『EXIT』だった。繰り返されるフレーズ。「You'll find the exit [あなたは出口を見つけるだろう]」。
思考実験のよいところは、是非の吟味が終わるまでは実現を思いとどまれることだ。過去の追憶や未来の夢想にもある程度は似た利点を見出しうる。出口探しが即断に結びつかないとしても、それが欠点であるとは限らない。一線を越える決断を留保するうちに、そもそもの前提や、目的と手段の設定が適切だったかも、真に欲するところさえも、問いなおされていく。私にとっては、そうだった(例えば、復讐したいのではなく、幸せになりたいのだと思いなおした、など)。
ただ、役目がそれに尽きるなら、有害な情報も混在する旧来の諸々より、そうした「ノイズ」の取り除かれた最新版の思考実験や想像図の方がより適切ではないかといった訝しみの言も、今の私の脳内では谺する。それもまた私に吹き込まれた(日付や座標を備えているにしろ)量産型めいた良心の声に過ぎないかもしれないけれど。とはいえ、ありふれた言すらも、しばしば銘々の生死に影響するものだと私は思いもする。過去の私に届いていたものが、教科書や専門家の言だけではなく、店先に並んだ小説やTVから流れる音楽――上に挙げてきたような――でもあったように。
こうしたことを考えながら私が思い出すのは、マーク・フィッシャー『わが人生の幽霊たち』だ。それは過去に出会った文化とその記憶の使い方を論じ、一種の範例を示そうとした本にも思える。「音楽文化は、失われてしまった未来の企ての、その中心に位置していたものである」と冒頭の論考でフィッシャーは語っている。あるべきユートピアを思い描くためのよすが。ある種のディストピア的イメージにさえ、それが潜んでいたのだと。
たしかにそれらの再検討には、商売ありきの焼き直しや時代錯誤の反動へと陥る危険もある。しかし、そうした陥穽は避けつつも、当該文化に託されていたはずの、過去の夢想的な未来像を手放さないことが必要なのだ、とフィッシャーは譲らない。「過去を思い出すことのできない者は、過去が永遠に広報やポピュリズムに転売されたままであることを運命づけられることになる」。ある種の――必ずしも「高級」にも「正統」にも収まらない――音楽文化が、フィッシャーにとって、少なくともある瞬間の、生を支える何かであったのだろう。
大まかな見立てや個々の論評の是非とは別に、フィッシャーによる過去の偲び方には、触発されるところがある。私に届いていた諸々がフィッシャーの言う「音楽文化」と異なるものなのは確かで、それらに描かれた世界像や諸過程が常軌を逸していたのも確かだ。ただ、フィッシャーの本に触れ、それら諸々との出会いとともにあったはずの己の情緒や切実を、掘り起こして眺めなおしてみたくなったのも、確かなことだ。
この文章が、この世界から消滅すべき事例、二度と再現されずに記録が残るだけに留まるべき事象、今後はより目的に適った対象をより適切に受容する体験へと置き換えられるべき出来事の、無闇な蒸し返しに留まるのか、それともそうした諸々や、それらと類縁性を見出されうるコンテンツ群とともに、また別の事態へと向きあうときに役立つ何かともなりえているのか、私には判じがたい。私の意図だけでは決定されえないだろう。後者であらんことを、と願いつつこれを書いたのは、確かなはずだった。
次回は3月24日公開予定です。