異様に自分の見た目に執着している。頭で理屈は分かっていても、外見によるコンプレックスを払拭しようと日々精を出している。
ひどい時には、自分の仕事や対人関係が上手くいかないことを見た目のせいにする。能力を発揮して輝いている他人を見るとき、自分と比較する。肌の質感、目の大きさ、背丈、骨格、肉付き、鼻先から上唇までの距離。
先にくだらないと言い切っておくべきだろう。
「顔の美醜について──ドキュメンタリー」では、容姿の美醜を判断できなくなるテクノロジーが開発された世界が描かれている。「美醜失認処置(カリーアグノシア)」を巡って、賛成、反対、普及を目指す協会、反対する企業など、様々な立場の人物が取材を受けているような形式で物語が進む。
この作品を初めて読んだとき、私はただただ甘受した。「この処置いいな」「でも弊害もあるな」「この顚末で納得」。冒頭で触れたように自分の表面に手を加えるあれこれは、このときも同様に行っていた。
けれど最近、再びこの本を読み返した際に――この文章で紹介したかったからだが――登場人物の主張に対して、頭の中で少し言い返せるようになっていた。というより、反論せずにはいられない。「ちょっと違うんじゃない? だってモナリザのモデルに選ばれる側と選ばれない側がいるならば……」。そんな調子に。
もっとも私はこの類のことを熱心に勉強しているわけではない。関心があるのでするべきではある。しかしながら、毎日のように目に入るニュース、エンタメ、それらに関する批評・批判、それを受けての友との語りが、私に機会をくれているようだった。
態度は決まっている。ルッキズムに対してどのような態度でいるべきか。周囲の人の発言に違和感を感じたときにどのようにすべきか。どういう世の中になってほしくて、そのためにどういるべきか。
ただ、現時点で自分の心と身体に対してだけそれを当てはめることができていない。どうも心の折り合いがつかない。減量したり、化粧をしたり、美容皮膚科に行ったりなんだり、コテコテに。「好きで、選んでやっている」を理由にして、結局自分の行動は外から見れば何一つ変わってはいない。
前進したい。もし一歩でも二歩でも進んだら、この本を読みながらする登場人物との想像上の議論は、また違ったものになるはずだ。自分の中の基準としてまた読み返そう。