隣の席のJ君は漢和辞典を引くのがとても速かった。目的の漢字を引くために、辞典の見返しの部首一覧から探すべきか、音訓索引から行くべきか、それとも「この字は823ページで見た気がする」と記憶を頼りに当たりをつけるか、そういう判断も速かったし、まためくるのも速かった。漢和辞典を引く速さを競う競技があったら優勝間違いなしなのに、とわたしはいつも彼のぼろぼろになった『漢語新辞典』を微笑ましい気持ちで眺めていた。
J君とわたしは漢文で切磋琢磨する仲だった(漢文を介さない接点はゼロだった)。J君が昼休みに「過去問にいい七言絶句が載っていましたよ」と破顔して参考書を持って来れば、わたしは「では原典を当たりにいつもの場所へ」などと答えて、図書室のすみっこ、三百六十五日無人の『新釈漢文大系』コーナーに連れ立って、典拠と思しき漢詩を探しては嬉々としてああだこうだ語り合った。J君といると古代中国の白黒の線画にも色がついたし、千年前の人々の暮らしさえ目の前に現出するようだった。
そんなJ君の保護者の方が、受験を控えた冬、病気にたおれられた。長男である彼のことだから、高校を辞めて働くなどと言い出すのではなかろうかとわたしは空席を寂しく見つめていた。J君はしばらくして登校して来るなり「いい詩人を知りました」と半オクターブ高い声で言った。「初めて会った親戚がくれました」手にしていたのは岩波文庫の『李賀詩選』(黒川洋一編)だった。
「聞いてくださいよ。『こんけつせんねん、どちゅうのへき』」
「こんけつ……字を見せて字を」
「恨むに血ですよ。恨みの血ですよ。それが死んで千年経てばほら、土の中で」
「碧玉のヘキ?」
「そう、エメラルドですよエメラルド」
「うっわあ」
「うっわあですよこれはー」
絶望も悲しみもそれなりに経験してしまっている少年少女は、李賀の詩に共感を覚えながらページを指差し盛り上がった。千二百年前、盛唐の後に生まれて理不尽を経験して死んだ男の慟哭は、字句から滲み出してくるようだった。
恨血千年土中碧
(恨みこもるわが赤き血潮は千代ののち碧玉と化して掘り出されん)
李賀が何をそれほどまでに恨んでいたのか。『李賀詩選』から李賀伝の冒頭を引用する。
八一〇(元和五)年、二十歳のとき、李賀は河南府の推薦を得て、科挙の試験に応ずべく長安の都に出て来ている。しかしながら、李賀を待っていたものは思いもかけない妨害であった。それは李賀の父の名が晋粛であることにより、「晋」は「進」と同音ゆえ、進士科の試験を受けることは親の名を犯すことになるから試験を受けるべきではないという声が起こったことである。
李賀の書く詩は、変わっている。変わりすぎていて、官職には向いていないと判断されたのかも知れない。現代の就活でも、エントリーシートや願書の文面がずば抜けてロックでアーティスティックで独特だったら、「こいつは弊社では御しきれん」と面接前になんやかんや理由をつけてお祈りされるのと一緒だ。きっと李賀もお祈り代わりに言い掛かりをつけられたんだ。そう思わせるくらい彼の書く詩は変わっていて、完成度が高く、美しく、危うい。
J君とわたしは『李賀詩選』を巡ってひとしきり李賀を称える語彙を競い合い、放課後めずらしく一緒に駅まで歩いた。J君からは唐突に、「受験は断念します」という、いちばん聞きたくなかったせりふを聞いた。「“恨血千年”の気持ちでいきますよ」と彼は続けた。“臥薪嘗胆”に代えた四字熟語は、斬新でおしゃれで痛々しかった。霜月、曇天、灰色のホーム。電車がゆっくり進入してくる。わたしたちは覚えたばかりの中国語で「明天見吧(またあしたね)」と手を振った。
人生は実に手に余る。わたしはJ君に、彼が望む通り漢詩の研究者になってほしかったけれど、彼は紆余曲折を経ていまは国語教師になっている。いい授業をしていることと思う。わたしにそうしてくれていたように、生徒に「いい詩を見つけました」と言っては相手に響く漢詩を勧めるソムリエみたいな授業をしているかも知れない。内心、燃え盛る挫折への苦悩を湛えていても、あの人はそんなの一切顔に出さずにいい笑顔でいることができるから――ああ、そうだ、李賀だって、詩には絶望を書き付けながら、きっと周りの人には微笑んでいた。
李賀は二十七歳で早逝し、それから十二世紀もの時が経つ。きょうも地上のどこかで、彼にとっては未来人に当たる誰かが、その詩のエメラルドの如き輝きに魅せられ、彼に思いを馳せていることだろう。