米原万里『嘘つきアーニャの真っ赤な真実』を読んだ。「ルーマニア革命」と言う語句を検索していて、なぜかこの本に辿り着いたのである。白、赤、青のスラブ国旗をモチーフに、色彩的でテンポの良い、映画の場面進行を思わせる文体で書かれたプラハでの青春、そしてハーナウ、ブカレスト、ベオグラードでの後日譚。
語られるのは世界の半分、ちょうど月の裏側のように、普段われわれの目には触れることのない二十世紀世界の裏半分、共産主義諸国の内幕である。プラハのソビエト学校、そこは政権党もそうでない党も含め各国の共産党幹部の十代半ばの子女を集めて、モスクワから派遣の選りすぐりの教師たちが教える、国際共産主義エリート養成の幼年学校であった。自分たちが人類の未来を開いているという信念に由来する矜持と、そこが実は裏側であって「西側」表世界に落伍しているという隠蔽できない現実の浸み出しが交錯する。そして青春は美しく、敗北の後であっても、哀しくも懐かしい再会はさらに美しい。
ドラヴァ川とサヴァ川、そしてドナウ川。スラヴォニアとブコヴィナ、そしてトランシルヴァニア。茫洋たる平原と正教会、そしてモスクの尖塔。物語の背景に常に感じられるのは、アジアとヨーロッパの境目の風土に漂う、野性的で危険でロマンティックな香りである。
著者の分身「マリ」が出会った人々の中で、一番の「悪役」がルーマニアから来たアーニャである。この少女が紡ぎ出す現実と虚構の混じった物語たち。一体彼女は何を言いたいのか、あるいは何を隠したいのか。その動機は結局謎のままである。彼女の家族の王侯のような暮らしからは、共産党幹部が富と権威を独占するルーマニアの特異なお国ぶりが垣間見られる。そこはまるでドラキュラ伯爵の封建中世そのままに、支配者たちの顔だけが入れ替わった場所のようだ。その推測は後年、ルーマニア革命後のマリのブカレスト訪問で裏書きされる事になる。民主化されたルーマニアの一般的貧困の中、王国時代そして共産党時代を通じて不変でありつづけた豪壮な邸宅街に、武装警官のチェックポイントに守られて一般の目に触れぬまま、アーニャの家族は特権的な暮らしを続けていた。そして国を支配するのは得体の知れない灰色の霧である。誰が革命を主導したのか、誰がどのような正当性に基づいてどのように国を率いているのか、外から見通すことは困難である。
この灰色の霧は筆者には前から馴染み深いものであった。それはわが愛読書の一つミルチャ・エリアーデの謎めいた小説『ムントゥリャサ通りで』で出会った霧である。この小説では、嘘とも真実ともつかぬ幻想的な物語を無限に紡ぐのは、生徒ではなく老教師ファルマである。そして場所はルーマニア共産党が運営するブカレストの政治囚監獄である。そこで語られるのは大戦前の王国時代、ファルマが校長を務めていた中学校の生徒たちの青春であった。少年少女たちの現実世界、そして彼らが探求した神秘的な地下世界は、二度の大戦とルーマニアや近隣諸国の諸政府の崩壊、国家財宝の消失、人々のアイデンティティの消滅や変遷を経て、やがて小説の中の秘密めいた現在へとつながっている。全編にたちこめる灰色の霧のために、小説に登場する秘密警察の将校たちにも、そして読者にさえも、物語の核心に眠る秘密は見通すことができない。
ルーマニア革命を覆う不可思議の霧、他所者のルーマニア理解を拒み続けるこの霧の正体は、いったいなんなのだろうか。東欧で唯一ローマ帝国伝来のラテン系言語を話すルーマニア人は、まわりをスラブ系諸族やマジャール族といった異族に囲まれて暮らしてきた。近世にオスマン・トルコ、直近の過去にナチス・ドイツ、そしてソビエト・ロシアの支配を受けつつ、言語文化の独自性を決して失わず、自治と内政の独立、実質的な主権を常に維持してきた。ルーマニアを統治する政治構造の不透明さは、おそらくはそのような歴史と関係があるのだろう。それは外来支配者を欺いて民族エリートの人的思想的継続性を維持するための、一種の韜晦なのかも知れない。二つの小説を読んでも、そんなあやふやな考えが浮かぶのみで、本当の答えはもちろん得られない。
これら二つの物語を読むと、むしろその霧はいよいよ不透明に謎めいて、さらに奥深い秘密を宿しているようにさえ思えてくる。
ティミショアラ、カランセベシュ、アルバユリア、シギショアラ。
クルジュナポカ、トゥルグムレシュ、ゲオルゲニ、ブラショフ。
口にするだけで魔術的幻影を呼び起こす不思議な名前のルーマニアの街々。まとまった休暇をとって、チャウシェスクの築いた壮麗にして悲惨なブカレストの街路を歩き回りたい。カルパチア山脈の麓、村々のルーマニア正教会の尖塔を遠くに見ながら、欧州中世の景観がそのままに残る最後の地アルデアルの平原を彷徨いたい。コロナ禍で遠ざかってしまった、こんな筆者の積年の想いが、いよいよ深まってくるのだ。