『らーめん才遊記』は哲学である。このことが単なる修飾ではないことは、すでにこの記事と同時公開された私のnoteで論じている(「一度ラーメンを食べたなら、あなたは歴史のなかにいる」)。この記事はその論考の末尾の部分に手を入れて縮約したものである。「一度ラーメンを食べたなら、あなたは歴史のなかにいる」では、絓秀実やバラク・クシュナー、津村喬、ソクラテス、ヘーゲルといった固有名を援用しながら、ジャンクにして「ニューウェイブ」としての「ラーメン」をいかに論じるべきかを論じているので、興味のある向きは、まずはそちらを読んで欲しい。
こうした『才遊記』の物語は、しかしやはり全体としては、近代形而上学——意志の形而上学——の枠内に収まると言わざるをえない。結局のところ『らーめん才遊記』は、「天才」や「個性」なる18世紀以来のロマン主義的な概念と価値に訴えかけている。こうした「ラーメンの哲学」の自己批判を経た「ラーメンの批評」が始まるのは、三作目『らーめん再遊記』である。
ここで芹沢達也(ラーメンハゲ)は、とうとう藤本(『ラーメン発見伝』主人公)や汐見(『らーめん才遊記』主人公)といった「弟子」との関係から解き放たれ、主人公になる。芹沢のしがない中年男性的な生活と実存が描かれたことで本作は話題を呼んだが、しかし芹沢の批評眼は死んでいない。『再遊記』十三杯で芹沢は、実際に「批評の神様」たる小林秀雄を参照しつつ、「個人」の時代の後に「形式」の時代がやってくると語る。個々人が独自のラーメンを創作する「天才」の時代はもはや限界を迎えている。むしろ次に作られるべきは「万人の形式」——フォーマットあるいはプラットフォーム——である。
個人から形式への移行、ここにおいてラーメンのフォルマリズム、ラーメンのモダニズムが始まる。天才なき時代、絶対的創造なき時代において、次に始まるものは、批評である。いかなる内容であれ「自己表現」しさえすればとにかく尊重されるべき、という観念論が振りかざされる現代において、この氾濫する「自己表現」——それは無論、すでに過去のものとなったロマン主義的概念に過ぎない——を徹底して「形式化」する、ラーメンハゲ的批評の地平が求められているのは言うまでもない。この連載中の作品が単なる「おもしろ中年ラーメンハゲ漫画」以上の読まれ方をするべきなのは、確かである。
私たちは天才の物語を通過して、いまやこうした批評の尖端に到達しつつある。しかし、こうした批評を受け入れるだけの準備を私たちはしているだろうか。私たちは未知のものへの好奇心をもちえているだろうか。そしてその好奇心を、再度歴史のうちで捉え直し「吟味」するための眼と舌を、持ちえているだろうか。いま批評の場所はどこにあるのだろうか。
1999年にはじめて提起された[1]この問いは、これまで、もはや嫌になるほど繰り返されてきたし、私はいま辟易としながらこの文章を書いている。だが、それが単なるクリシェに過ぎないとしても、大手文芸誌が軒並み新人評論賞を休止し、実際に「批評」と呼ばれる営為が機能停止したいま、これはそれなりに切迫した、具体的な問いとして受け止められるべきであろう(もちろんこうした評論賞が「復活」すれば解決するような問題でもないが——そもそもそれはいつから「機能停止」していたのか?)。
しかしそのような苦境を悲観的に語り、批評の死を追悼するだけなら誰でもできる。そのような裏返しの慰みに終わるつもりは毛頭ない。私はむしろ、実に楽観的に、アッケラカンと、次のように答えてみたい欲望にかられている。あなたがいま食べようと覗き込んだそのラーメンの丼のなかから、批評ははじまるのだと。そこに歴史があり、形式があり、痕跡があり、他者があるのだと——そう言いたい欲望にかられている。そして、そうした痕跡に出会うためにこそ、あなたはラーメンを食べるのだと。ラーメン批評のハード・コアははじまったばかりである。
[1] 柄谷行人、浅田彰、福田和也、鎌田哲哉、東浩紀「いま批評の場所はどこにあるのか」、『批評空間』2期21号所収、太田出版、1999年