昨日、なに読んだ?

File100. “親心”を知りたいときに読みたい本
リチャード・ドーキンス『利己的な遺伝子』(訳:日高敏隆、岸由二、羽田節子、垂水雄二)

紙の単行本、文庫本、デジタルのスマホやタブレット、電子ブックリーダー……かたちは変われど、ひとはいつだって本を読む。気になるあのひとはどんな本を読んでいる? 各界で活躍されている方たちが読みたてホヤホヤをそっと教えてくれるリレー書評。今回のゲストは、ノンフィクション『母という呪縛 娘という牢獄』(講談社)が昨年末の発売直後から話題を呼んでいる齊藤彩さんです。国立大医学部への進学を強要され、9年にわたる浪人生活の末に母親を手にかけた娘――その声を真摯に聴き取り続けた、いま最も注目したい作家が一冊の本を紹介します。



「〇〇★2024小受」「〇〇の受験ママ」
 近年Twitter上で、このようなアカウントが増えている。合否の発表が相次ぐ2、3月。我が子を少しでも偏差値の高い学校に入れようと奔走した親は悲喜こもごもだろう。
 教育と子育ては、日本の多くの家庭にとって最大のテーマだ。子に遺せるほどの資産のないサラリーマン家庭の場合、それはとくに顕著と言える。安定した収入を得られる安定した職に就いてもらうために必要なのが、「学歴」だ。根底にあるのは、子どもの幸福を望む親心だ。
 ところで、そもそもなぜ、親は子を慈しむのだろう? 「子供のため」と信じて、どんどん教育投資をエスカレートさせていく。より良い将来を望んでやまない「親心」という感情を掘り下げると、きっと何かしらの源泉に辿り着くはずだ。
 
 その問いに、一つの洞察を与えるのが本書だ。生物学者であるリチャード・ドーキンス氏が、生物の進化の過程を種から個体、さらには遺伝子のレベルに分解し、遺伝子には自らの複製を増やそうとする性質があることを論じている。この性質が、あらゆる生物の行動原理となっているのだという。一見利他的に見える行為であっても、間接的には自分の遺伝子を残すこと、つまり利己的な選択につながっている、というのだ。
 こうした利他的な行動について、ドーキンス氏は「動物の利他的行動の中でもっともふつうに、もっとも顕著にみられるのが、親、とくに母親の子に対する行動である」と述べている。
 そして、親が子のために自らを危険にさらし、子を守ろうとするのは、間接的には親の遺伝子が「自分のコピー」を守ろうとする行為だというのだ。つまり、親が子を生かそうとする心理は、遺伝子によって無意識にコントロールされており、親を縛り付けているとも言える。

 遺伝子はいつから、このような挙動を始めたのだろう。ここで、生命の歴史を繙いてみたい。最初の生命は約40億年前、最初の人類(ここではアウストラロピテクスとする)は約500万年前に誕生したと言われている。1万6000年前ごろには日本列島に人類が移住していたとされる。
 そんな悠久の生命の歴史に比べると、受験戦争の過熱はほんの最近の出来事だ。日本では高度経済成長で国民の所得が一気に上がり、子育てに資金を投じることのできる中産階級が増えた。バブル崩壊後の不況が、より高い学歴を得ようとする風潮に拍車をかけたといえよう。たったの50年少々の時間軸のことだ。
 つまり、現在の社会制度が生まれるはるか昔から「自らのコピーを守る」という遺伝子の振る舞いは存在し、受け継がれている。遺伝子の変異を凌ぐ凄まじい勢いで変化する現代社会において、受験戦争は親がもつ本能のひとつの現れなのだ。

 ドーキンス氏の説に則れば、「子によりよい人生を送ってほしい」という親心は、遺伝子レベルに組み込まれた、きわめて本能的な行動原理といえる。それが昨今の受験や教育制度の中で顕著に現れているのだろう。時にそれが子の重圧となり、苦しみを与えることにもなる。「2024小受」のアカウント主も、子を苦しめたくて奮闘しているわけではないのだ。
 この普遍的な行動原理が、親から子に対する「愛情」の正体ではないだろうか。そのことが、親にとっての呪縛となるのかもしれない。本書は、そんなことを気付かせてくれる。