ノンフィクション・ライターが古今東西のノンフィクションの傑作を紹介する。こう書けばよくある本のように聞こえるが、井田真木子の方法は特異だ。冒頭、彼女は、彼女にとってリアリティを持つ本=切実な本を説明する前に、“切実な出来事”の経験として、幼少期に近所の子供に暴力を受けた体験を語る。
たとえば、あれは四、五歳のときだった。私は、自分が生きた肉体をもっているという切実な出来事を実感したことがある。
ある日、近所の子供と路地で穴掘り遊びをしていた。しばらくすると、右横にいた一歳ほど年下の子供がシャベルの柄を持ち替え頭上に振りかざした。
私はシャベルを見上げ、シャベルを持ったその子の顔を見た。輝かしいほどの笑顔を浮かべている。悪意という言葉はまだ知らなかったが、私にはわかった。この子は私を微塵に砕いてしまいたいのだ。
彼の顔の輝きが増すのを見て、もう一度、頭上のシャベルに目をやる。
それは最初ゆっくりと、最後の瞬間にはとても速く振り下ろされた。彼はその間、慎重に私の小指をみつめていた。シャベルの側面は正確に小指の第一関節に当たり、彼の顔から輝きが消えた。彼は私の指に食い込んだシャベルを持ったまま、尻もちをつき、弱々しい声で泣き始めた。怯え、泣いている彼はすでに美しくもなんともない、ただの幼児にもどっていた。
無事なほうの手でシャベルの刃を指から抜き去り、遠くに放ると、彼は本格的に泣き叫び始めた。
「連れて帰って」
その子の姉に言った。
「こんなに泣いたら遊びにならない」
私より年かさの女の子は黙って立ち上がり弟の手を引いて家に帰っていった。
彼らが遠ざかる気配を感じながら、裂けた小指を目の前にかざして見つめた。シャベルの刃は骨まで届き、損傷した部分はぐったりした肉片に変わっている。見つめているうちに、肉片は薬指にもたれかかってきた。その断面に目を近づけ、泡立っている血を口で吹いて見つめると、切断された箇所から何本かの細い筋やちぎれて伸びた血管や肉が見える。人間の肉というのは青白いことを、そのとき初めて知った。肉片は細かく震えている。まるでもうひとつの肉片を求めているようだ。シャベルが叩き壊せなかった関節の骨は、すばらしく白かった。
しばらく見入ったあと、私は路地の水桶の蓋をあけてひしゃくで水をすくうと傷口の泥を流し落とし、精巧なおもちゃを組み立てるような気分で断たれた肉片を元の位置にもどして、しばらくおさえていた。
こういうふうにすると、完全に切断された肉体も復元するということを知ったのは後年のことである。
だが、その小指が切断されたままであろうとなかろうと、本当はどうでもよかったのだ。私は『私』の肉体についていくらかの切実なことを知ったのである。
そして、悪意が輝かしいものであり、後悔が醜いものであることも同時に知った。
過去のノンフィクション作品を紹介する前に、自らの肉体の断面を読者にみせるノンフィクション・ライターが他にいるだろうか。だがここで“切実さ”が「傷」のイメージで語られることは重要である。井田真木子にとって、切実さ=リアリティとは、暴力とともにやってくるものであり、そしてまた、自己と切り離せないものであることが示されている。“切実な本”について述べるこの本はお行儀のいい「名作紹介」などではない。著者がその肉体を差し挟むようにして、血を絞り出しながら語られるものなのだと、この冒頭の一節から明確にわかる。
「“切実さ”について」と題されたこの初めのシークエンスを読み、18歳の私はのけぞった。ここでは何か重要なことが起きている。もしかすると、これは私にとって特別な文章になるかもしれない。そんな期待のままに読み進めると、やはり『かくしてバンドは鳴りやまず』は通常の文学評伝では行わないような変わった方法を採用していた。井田真木子は過去のノンフィクション作家の“目”に入り込み、そのひとが何を見たか、何を聞いたかを、まるで本人のように記述する。そして、もう死んでしまった作家や会ったこともない作家に文章の中で語りかけてしまう。そんなスリリングな評論は読んだことがなかった。