例えば、ある箇所で井田真木子は『そしてエイズは蔓延した』を書いたランディ・シルツと『冷血』を書いたトルーマン・カポーティに、もう死んでしまっていないはずの2人の作家に向かってこう話しかける。
どう、ランディ。答えて? エイズで死ぬことは幸せなの? アルコール中毒で死ぬよりも。
“まさか”
私の中のシルツと、『私』は同時に言う。
“幸せな死なんてあるもんか”
でも不幸せな死というものもないわよね。
“結局、どっちでもないのさ”
八四年までアルコールと薬漬けになって生きたゲイと、アルコールも薬も断ったのに、九四年、エイズで死んだゲイが一緒に言う。
“死には意味なんてない。ただ死があるだけだ”
でも、それはとても大きな教訓だわ。人を殺さなくては生きていけない人間がいて、人が殺されなくては自分が生きていることを切実に、実感できない人間がいる。
あなたたちは、それを教えてくれた。
そして力尽きた。
でも、私は知っているわ。こういうことを。
“あなたたちは死んでいるんでしょう。間違いないわ。
それでも、やっぱりこの死人はあなたたちじゃない。
あなたたちはほんとうは死んだわけじゃないのよ”
また、別の箇所では、『大統領の陰謀』という、時の大統領リチャード・ニクソンを辞任に追い込んだほどの傑作を書いたにも関わらず、今では落ちぶれてしまったカール・バーンスタインに心のなかでこう呼びかける。
そしてあなたもそれを持っていたはずです。バーンスタインさん。私はスープをすするバーンスタインの姿を想像しながら言う。あなたの逡巡こそがあなたの忠誠心の証し、あなたが人間の尊厳を守ってきた証しなのではありませんか? カール・ミルトン・バーンスタインさん。人間の尊厳は、たとえ肉市場の片隅のレストランで出すごった煮スープの中でも溶けるはずがない。それは、必ず歯にあたり、痛みとともに、その人が生きていることを教えるものなのではありませんか。
言うまでもなく、これはとても危うい方法だ。ノンフィクションにせよ評論にせよ、語る自己と語られる対象を明確に区別し、適切な距離を持ちながら記述するのは、あまりにも基本的なことである。その境界を峻別しない文章は、都合の良い事実誤認や牽強付会が容易に混入し、大抵の場合、甘ったるい自己開示に終始してしまう。
だが、井田真木子の的確で簡潔な文章は、情報と情緒を巧みにかき混ぜながらもナルシシズムや感傷の罠を慎重に避け、自他を混同する手前でぎりぎり踏みとどまる。そして、まるでシャベルで傷をつけようとでもするかのように、われわれ読者を過去の作品との共犯関係に引きずり込むのだ。それは例えば、次のような文章に顕著である。
フランス国籍のドミニクと、アメリカ国籍のラリーは、スペイン内乱を一人の闘牛士の半生と交錯させて一冊の本に仕上げた。それが『さもなくば喪服を』だ。闘牛士の名前はマヌエル・ベニテス“エル・コルドベス”。タイトルは、マヌエルが死を賭した大きな試合に出て行く前、それを止めようとする姉、アンヘリータに語った言葉からとられた。
マヌエルは同じ極貧の環境で育った長姉のアンヘリータに向かって言う。
「泣かないでおくれ、アンヘリータ、今夜は家を買ってあげるよ、さもなければ喪服をね」“喪”という言葉を、こんなにも優しく、しかし乾いた語感で、また正確に“生”と鮮やかに対比して使った例を、私はそれまでに見なかった。家を買う行為は、すなわち生きることである。しかし、それに失敗したときでさえ、人間には喪服を購う儀式が残されている。生と死は、その間に“喪”という時間を挟み込んだとき、初めて、人間にとって親しげでどこか哀しい風景として立ち上がってくるのだ。
この『さもなくば喪服を』は、井田が早川書房に校正者として勤めていた際、最後に校正した本だ。ここで井田が「“喪”という言葉を、こんなにも優しく、しかし乾いた語感で、また正確に“生”と鮮やかに対比して使った例を、私はそれまでに見なかった。」と絶賛し、「あの本には震えた」「最初のページの一文を校正しただけで胴震いがして、赤鉛筆が止まってしまったほどだ」とまで語るこの本の文章は、確かに情景のみならず、その奥に隠れた情感までも正確に写し出している。井田はその秘訣を、
要するに、私を震わせたものは、この作品が持つ、ハードボイルドの本質だった。マヌエルが語る一文はきわめて短い。しかしそこにはきわめて抽象力の高い言葉がぴたりとおさまっている。それがハードボイルドという固茹で卵の味わいなのだ。
と説明する。しかし、この特徴はまさに井田自身の文章にも当てはまるものではないだろうか。『さもなくば喪服を』を説明する井田の記述は簡潔なものだが、その簡潔さの先にスペイン社会のもつ非情さのようなものまでを見事に表している。井田は、
やわな想像力など軽々と凌駕する事実をとらえるために、よく聞き、よく見て、忠実に書く。その作業なしには、事実は、ただ抽象的なものに留まるだけだ。事実の本性――とてつもない野蛮さ――は、ただ見て、聞いて、書き取ることでしか捕捉できない。
と、ノンフィクションを書く際にシルツとカポーティが取った方法について述べているが、これは井田自らの方法論を語った文章と捉えていいだろう。ノンフィクション作品の文章が相対している現実の“野蛮さ”が抽象力の高い言葉で具体的に掬い取られたとき、人間が生きていることやその苦しみが根拠のないものではなく実体のある傷として立ち上がってくる。それこそが“切実さ”であり、リアリティなのだ。