再び、「“切実さ”について」の文章に戻ろう。先程触れた小指が切断された箇所に続く文章だ。
傷跡はいまだに私の左小指に残っている。私が『私』の本と相互寄生して生きてきたように、私は『私』の傷とも寄生しあって生きてきた。
(中略)
そして、私以外の人にも、この『本』が切実なものになることがあるだろうか。私はいつも、それについて考えてきた。もし、これから先、誰と会うことも禁じられ、外界からも遮断されて生きなければならないとき、その『本』はあなたや私に切実であること、言い換えればリアリティをもたらしてくれるだろうか。
リアリティとは生きた証しであり、今も生きていると私たちに感じさせるなにものかだ。それさえあれば、私たちは孤独も破壊も狂気も恐れなくてすむ。だから、それは切実な『私』と相互寄生する切実な本なのである。そして、私や『私』や、その本の著者や書かれた人が死んだあとも、一瞬にして、それらを蘇生させる力を持つ本。さらには次世紀に持っていく価値のある本だ。
「私たちは孤独も破壊も狂気も恐れなくてすむ」。これは井田の実感だったろう。そして、私の実感でもある。孤独も破壊も狂気も人間には捉えきれない、なにか茫漠とした、巨大な恐ろしいものだ。しかし、それを現実の野蛮さとして、あるいは傷として、肌触りでわずかでも感知できれば、「今も生きている」と感じることができ、それを語ったり記述することもできるのではないか。
ため息とともに皆が皆そうつぶやくように、井田真木子のことを語るときには「いま、井田真木子が生きていたら」と思わないではいられない。実は私は、このろくでもない2023年の社会について、井田に分析や論評をしてほしいとはさほど思わない。それでも、彼女の新しい言葉が生まれ、固まって位置を占めるということが、いま私が生きているこの瞬間にも絶え間なく行われつづけていたとしたらと想像するだけでも、ずいぶんと呼吸がしやすくなる。やはり、井田真木子の死は早すぎる気がする。
“あなたたちは死んでいるんでしょう。間違いないわ。
それでも、やっぱりこの死人はあなたたちじゃない。
あなたたちはほんとうは死んだわけじゃないのよ”
だがもちろん、井田真木子がランディ・シルツとトルーマン・カポーティに語りかけたように、彼女自身も「ほんとうは死んだわけじゃない」のだ。「切実な本」とは、「その本の著者や書かれた人が死んだあとも、一瞬にして、それらを蘇生させる力を持つ本」であり、作家や書かれた人が本の中で、言葉の中で、読者の痛みの中で何度でもよみがえり、私たちに新鮮な傷をつけていく、そういう本だからだ。
そして、『かくしてバンドは鳴りやまず』はそんな書物のひとつだ。その文章から事実の野蛮さとそのざらざらとした闇を肉体的な感触として感じられるとき、この文章の最初で感じていたような茫漠とした恐怖は薄れ、具体的なことを考えられるようになる。それはもしかしたら勘違いかもしれないが、それでも、もう一度だけなにか喋ってもいいのではないかと私は少しだけ思い直すことができるのだ。
なお、『かくしてバンドは鳴りやまず』は現在絶版だが、2015年に復刊された『井田真木子著作撰集』(里山社)に収録されているので、そちらで読むことができる。