「アキレスと亀のパラドックス」は、明らかに直感に反するにもかかわらず、2500年も議論されてきました。紀元前5世紀を生きたエレアのゼノンが唱えたパラドックスです。
俊足の英雄アキレスが、鈍足の亀に追いつけない、というパラドックスです。実際には、そんなことはあり得ません。一笑に付されても仕方のない話です。このパラドックスのどんなところが、ひとを惹きつけるのでしょうか。
パラドックスの内容を少し見てみましょう。まず、アキレスと亀は同じ場所からスタートするわけではありません。亀が少し先の地点からスタートします。この「少しの差」をアキレスが詰めるあいだに、亀は少しだけ進みます。亀が少し進んだ距離をアキレスが詰めるあいだに、亀はまたさらに少しだけ進みます。アキレスと亀のあいだの距離は次第に縮まりますが、このように記述する限り、無限にこの追いかけっこは続き、アキレスが亀に追いつく瞬間は訪れません。
アキレスが亀に追いつくためには、アキレスと亀のあいだに残された無限に小さい「距離」をアキレスが踏破する必要があります。ゼノンの言うとおりアキレスが亀に追いつけないとすると、アキレスはこの無限に小さな距離を踏破できないということになります。
亀を追い越す最後の一歩を踏破できないということは、つまるところアキレスは最初の一歩に含まれる無限小の距離をも踏破できないことになります。そしてアキレスと同じことが亀のほうにも当てはまります。かくして、アキレスと亀の世界は、運動の存在しない、永遠の静止に閉じ込められてしまうのです。
ゼノンは「運動が存在しない世界」を示すためにこのパラドックスを唱えたのでした。アキレスと亀のパラドックスの魅力とは、運動の存在しない完全に静止した世界の魅力なのです。
数学者の志賀浩二は『数学史入門』のなかで、ゼノン的な静止の世界観と、ゼノンと対比されるヘラクレイトスの変転する世界観のあいだの綱引きとして数学史を描写しました。ヘラクレイトス的な流転する世界を数学で捉えるために、ニュートンとライプニッツは微分と積分を見出しました。このことによって、動的なものと静的なものが数学においてつながれることになりました。ニュートンとライプニッツの微積分の対象として、関数の概念が成長しはじめます。
微積分は力学のような物体の運動の現象を捉えるために関数の世界の扉を開きましたが、関数は力学や図形のような対象を表現する「だけ」のものではありません。因果律や量のような表現する対象を持たない、自立した関数という概念が18世紀を通して育まれます。量から完全に離れた数学として複素数があります。
志賀によれば、ここにきて数学はやはり生活世界を離れた、ゼノンのパラドックスが示す「静止した世界」のような思弁的なイデアの世界のものとなったのかもしれないというのです。
生活世界の変量を数式に変換して記述しようとして生まれた数学の概念が、より抽象的な世界を開拓していく。世界を捉えようとした記述が、世界を静止させてしまう。静止したイデアの世界の抽象的な思弁は、まるでアキレスが追いつけない亀のように、生活世界の表現を置き去りにしてしまうのです。追いつけそうで追いつけない、このもどかしさが数学の魅力なのかもしれません。