ときどき、「わけのわからない多幸感」に包まれて、ムズムズするようなフワフワするようなゾクゾクするような、言葉ではうまく表現できない気持ちになることがある。たとえば次のようなとき。小学校を休んで母が洗濯物を干しているところをながめていたとき。深夜、サービスエリアで戻るべきバスがわからなくなったとき。風が強くて前に進めなくなって笑いがとまらなくなったとき、などなど。なんだかよくわかないときに、心が震え、じんわりと幸せらしきものを感じてきた。
本を読み終わったあとや、映画や舞台などを観終わったあと、余韻にひたっているときにも近しい感覚を覚えるが、こちらは幸せな気分になった理由がわかっているので、いうなれば「わけのわかる多幸感」である。
なるほど、と思う。「わけのわかる多幸感」が、物語に触れたことによって生まれる感情だとするなら、「わけのわからない多幸感」とは、もしかしたら、何かに触れることによって自分の中に物語が生まれた瞬間の感動なのではないか。母が洗濯物を干しているのをながめて、一体どんな物語を生みだしたのだと聞かれると困るが、あのとき抱いた言葉にならない感情を使って物語を書いたことがあったような気がしないでもない。
最近、北野勇作さんの『シリーズ百字劇場 ありふれた金庫』(ネコノス文庫)を読んで、「わけのわかる多幸感」だけでなく、「わけのわからない多幸感」にも包まれるという不思議な体験をした。
この本には、マイクロノベルと名づけられた約100字の物語が1ページにひとつずつ掲載されているのだが、僕は、ページをめくるたびに、ほのかに懐かしいような寂しいような、でも一度も見たことのない光景を幻視していた。本を読んでいるというよりは、なんだか、散歩をしているような、景色をながめながら妄想をしているような感覚。物語を読み終わって余韻にひたりつつ、その物語が誕生した瞬間に立ち会っているというような、わけのわからなさを覚えた。
マイクロノベルは1ページの中に、物語の始まりから終わりまでが綺麗におさまっている。そこには、物語が誕生した瞬間から読者に届き余韻にひたるまでの時間も内包されている。まるで玉手箱のように。あるいは金庫のように。
『ありふれた金庫』の表紙には、犬の散歩をしている男が、空き地に捨てられたベコベコの金庫を見つめている場面が描かれている。きっと、彼も「わけもわからない多幸感」に包まれているにちがいない。その証拠に、この光景を見て彼が生みだしたであろう金庫のマイクロノベルが、本の中に入っている。あ、いや、逆か。金庫のマイクロノベルからこの光景が生みだされたのか。物語が先か、光景が先か。もはやよくわからない。
北野勇作さんはTwitterやInstagramでマイクロノベルの発表を続けられており、過去にはキノブックスから『じわじわ気になる(ほぼ)100字の小説』として3冊、ハヤカワ文庫からは『100文字SF』が出版されている。今回、新たにネコノス文庫で始まった『シリーズ百字劇場』では『ありふれた金庫』に続いて、『納戸のスナイパー』と『ねこラジオ』の出版が予定されているという。次はどのような散歩コースになるのか、今から楽しみだ。
紙の単行本、文庫本、デジタルのスマホやタブレット、電子ブックリーダー…かたちは変われど、ひとはいつだって本を読む。気になるあのひとはどんな本を読んでいる? 各界で活躍されている方たちが読みたてホヤホヤをそっと教えてくれるリレー書評。今回のゲストは『事故物件7日間監視リポート』(角川文庫)『呪いのカルテ たそがれ心霊クリニック』(実業之日本社文庫)、『神様、僕は気づいてしまった』漫画原作(小学館)等をてがける注目の小説家・岩城裕明さんです。