江戸時代の女性たちのメイクで基調となる色は、白、黒、赤の3色だけというシンプルなものであった。白は肌を白く見せるための白粉。黒は眉墨とお歯黒。そして、赤は唇や頬、目元などに彩りを添える紅である。
浮世絵には、女性たちが鏡に向かって化粧をしているプライベートな場面がしばしば描かれる。喜多川歌麿の「口紅」(図1)もそのような1点で、女性が手鏡を片手に筆で口紅を塗っている。
眉を下げ、鏡に映る自分の唇をじっと見つめながら、手元が狂わないように神経を集中しているのだろう。何気ない仕草であるにも関わらず、女性の心情が伝わってくるのは、さすが美人画の第一人者である歌麿の観察力である。
女性の足許にはお歯黒をつけるための耳盥や渡金、五倍子粉や鉄漿水を入れる容器などが並べられているが、耳盥の陰に紅猪口が見える。
当時、唇に塗る化粧用の紅は、猪口や小皿に塗布して販売されていた。これを必要な分だけ水に溶き、少しずつ使っていく。上質な化粧紅は値段も高額なため、丁寧に口紅を塗るのには経済的な理由もあったのだ。
さて、口紅の塗り方であるが、江戸時代は淡くほのかに色づけるのが良く、濃く塗り過ぎるのは品がないとされていた。だが、メイクの流行も時代によって変わるもので、文化・文政年間(1804~30)の一時期には口紅を濃く塗ることが好まれた。
溪斎英泉「当世好物八契 大極上 本結城紬嶌」(図2)の眉を剃り落としてお歯黒をした既婚者の女性の唇に注目してもらいたい。
上唇は普通に紅色なのだが、下唇はなぜか緑色になっている。現代の感覚からするとちょっとギョッとする色だが、これは「笹色紅」と呼ばれた唇メイクである。
上質な紅は何度も塗り重ねることによって玉虫色という光沢のある緑色に輝く。笹色紅にするには高価な紅がふんだんに必要なため、はじめは裕福な人たちに限られていた。しかし、そうでない人たちも何とか真似をしようと、下唇の中央に墨を塗り、その上に紅を重ねることで、玉虫色の輝きに似せるというテクニックを編み出した。その結果、笹色紅は既婚者から若い十代まで、世代を越えて一世を風靡する。
改めて図2の女性の下唇を見てみよう。平板な緑色ではなく、玉虫色の輝きが感じられるように濃淡のある摺りとなっている。人気の笹色紅を表現するため、絵師や摺師も細部にこだわったのだ。
とは言え、新しいメイクを受け入れらない人もいた。学者である喜多村信節は『嬉遊笑覧』という随筆で「近頃は紅を濃くして唇を靑く光らせなどするは何事ぞ」と笹色紅に対する不満を吐露している。この本を執筆した時、喜多村信節は数え48歳。年配の男性にとって、女性たちの流行りのメイクについていくことは困難だったのだろう。